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 結局、あの後ファミレスへ行き、ジルの報告を僕は黙って聞いた。母さん、母さんと口癖のように繰り返される言葉に溜息を吐きながら、ドリンクバー特有の微妙な珈琲を何杯も飲んだ。
 僕にとってジルの報告を聞くのは慣れた習慣だ。それでも、胸がずきん、ずきんと痛む。痛みだけを伴う行為。自分が今まで抱いたことのない痛みが突き刺さるたびにどうして自分がジルと共にいるのか判らなくなる。苦しい。呼吸困難になる。
 小学生のころ、水泳の授業で溺れそうになったのを思い出した。あの頃のジルはまだ、母親第一主義でもなければ、甘ったるい砂糖菓子みたいな喋り方でもなかった、もちろん化粧もしていない。顔は整っていたし人を引き付けて離さない魅力も変わらず存在したけれど、それを除けば、探せばどこにでもいる普通の小学生だった。
 溺れた僕はもがき苦しみながら助けを求めた。しかし、普段から運動が人並に出来た僕は泳ぐこともでき、周囲の人間は「充葉が珍しくふざけている」という風にしか映らなかった。脚が吊り、身体を水の中に浮遊することが儘ならない僕の肺に大量の水が入り込んできた。
 嫌だ、笑っていないで助けてくれ!
 冗談じゃないんだと叫びたかった。空気を必死で吸おうと口を開くたびに侵入する水のせいで言えなかったけど。
 薄れゆく景色の中、ああ、もう僕は駄目なんだって自虐的になり希望が薄れゆく中で、腕を引っ張り、僕を抱きかかえてくれたのが、ジルだった。ワックスで固めていない髪は水 を吸い込み撓っているが、艶やかで、水泳帽が似合わない。懸命に僕の頬を叩く姿が一生懸命で助かったんだと実感した。
 けれど、今、ジルは助けてくれない。
 溺れそうな原因となっている男に助けを乞うなんて滑稽だ。


「充葉ぁ、聞いているぅ?」
「聞いているよ」

 現に今も僕を溺れさす言葉を吐いている。報告会は定期的に不規則に訪れる。放課後が多い。今も放課後だ。
 閑散としてクラスメイトが居なくなった教室で向い合せるようにして僕とジルは座っている。窓の向こうから時折、部活動に励む煌びやかな声が聞こえる。屈託のない肉声は僕の心を緩和する。
 委員会の書類を机の上で整え、ホッチキスを止める。ぱちんという音など気にせずジルは滑らかに喋る。手伝うことはない。机の上で腕を組み、自身の腕に顔を置き、首を左右に動かしながら愉快に口を動かす。

「それでねぇ、充葉ぁ。最悪だったんだよ。昨日はねぇ、親父と母さんがセックスしているの見ちゃったんだぁ」

 扉を閉めるという最低限のマナーが守れない夫婦だなとジルの話を聞きながら思う。ジルが夫婦間の性行為を目撃したと聞かされたのはこれで十を超えた。小学生のころから聞かされてきたので、少ない方だと思いたいが両親の性行為を一度たりとも目撃したことのない僕にとって俄か信じられない回数だ。
 初めて聞かされたとき、性行為というものを文献の中で知識としてしか知らなかった僕は思わず、ずれた眼鏡を人差し指で押し上げた。世界が母親中心で回っている当時のジルにとって両親の性行為から齎される衝撃は相当の大きさだったらしく、僕は何度も聞かされた。ジルが見た一部始終を文章に直せるくらいに。

「昨日もやっぱり母さんはフェラしてたんだぁ。親父の汚いペニスを口にしゃぶって、腰を高く突き上げ、綺麗だったんだよぉ。だからさぁ、充葉、オレさぁ、母さんだったら抜けるかなぁって思ったんだぁ」

 ホッチキスを握っていた腕を停止させた。
 目線を資料からジルへと移すと不敵に笑うジルと目と目がばちりと合う。すべてを見透かしているようなジルの美しい眸が呼吸を止める。
 いつも通りの報告。僕は胸の痛みを抱えながらジルの報告を聞いていればいい。けれど、今、ジルの口から飛び出したのは付き合いが長い僕でさえ予想していなかった言葉だった。

「ジル、今……なんて言ったんだ?」
「あぁ〜〜! 充葉にはぁ、こういう話はしないよねぇ。あのねぇ、オレはぁ、女の人にぃ、勃たないのぉ」

 身体を軟体動物みたいにくねらせながらジルは平然と言い放った。
 確かに僕とジルは性に関わる話を滅多にしない。思春期真っ最中の男子高校生としては珍しい部類だと思う。
 僕がいつも一緒にいる大人しく、女子から見れば対象外と判断される男子でさえお勧めのAVサイトが携帯に送られてきたり、クラスの誰とだったら童貞を捧げてもいいなんて下らない会話を繰り広げたりするのに。
 ジルとは一切、そういう系統に属する話をしたことがない。
 逆にジルは派手系のいつも一緒にいる坂本なんかと、そういう系統の話をするのだろう。勿論、僕たちみたいに影で内緒話をするように話すのでもなければ、妄想で終わることもないのだろうけど。たまに教室の隅っこでジルが携帯を弄りながら坂本一人で盛り上がっているときがある。どの子が好みだ、とか、どの子の胸に顔を埋めたいとか、そんな声が聞こえてくる。 
 直後、今付き合っている彼女の具合はどうとかいう下品な話が始まるので、そういう系統、性関係の話をしているとみて間違いないだろう。ジルから積極的にその手の話に関わっている光景を僕は見たことはないけど、僕が知らないだけで話しているというのは普通のことだ。

 なら、どうして今まで僕たちの間ではそういう系統の話がされなかったのだろうか。
なんとなく……――だけど、無意識に避けていたような気がする。
 僕たちの関係が普通の友達というものに当て嵌まらないというのもあるけれど。
 
「それってどういうことなの? ジル」
「あのさぁ、充葉はぁ、オレが中学のときにぃ付き合っていた子たち知っているぅ」

 ジルは僕を指さしながら告げる。
 付き合っていた子たち……――
 僕はそんな子たち知らない。
 確かに小学校の時より社交的になり僕以外の人間とも喋るようになったジルは女子からもてた。彼女になりたがる女の子で教室は溢れていた。化粧をしているといえ、その魅力は化粧程度では収まらない。寧ろ僕以外の人は化粧を落としたジルの顔なんて忘れているだろうし、そもそも中学校からの知り合いは化粧をしているジルしか知らない。 だから、関係なかったのかも知れない。
 触れると殺されるような雰囲気が緩和されたジルの周りには特に強気な女子が集まった。中学生に見えない明るい茶髪に短く下品なスカートの丈。僕を睨む双眸はアイラインが濃く引かれ、化け物のような女子が特に多かった。
 いっぱい居たから、誰と付き合ったとか、誰とセックスしたとか、僻み妬みが入り混じった噂が飛び交ったけど、僕は全部、噂に過ぎないと頑なに信じていた。








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