01結局、無理だった。 体育祭の時に味わったジルと離別したことによる高揚感は長く続かず、萎んでいった。教室の隅っこにいても、ジルの行動、一つ一つが気になるのなんて日常茶飯事で、日を追うことに不機嫌になっていくジルの姿が見えた。自惚れてみたり、気の迷いだと、首を振り上げたりした。結局のところ、強気に責めてみても、僕はジルから逃れられない。今回の、出来事は、僕の手でそれを証明するだけの形で終わった。 恐怖でしかなかった放課後。自ら、椅子に座り込んで斜陽を眺めていた。ジルに折られてしまった眼鏡を抱きしめて、水滴を垂らしたようにぼやける世界の隙間から、自分自身が抱える憂鬱な気持ちを慰めた。誰かといても、一人でいても、心中を占めるのは、ジルという存在だけで、僕の脳味噌はついに馬鹿になってしまったのか、と溜め 息。いや、よく考えると、対して変わらないかも知れないな、と苦笑い。自分の中で雁字搦めになり、抜けられない迷宮を彷徨いながら、僕は涙を流しながら、眠りについた。迷うだけ、迷い、睡眠さえ、疎かにしていたのだ。自分から行動したくせに、笑ってしまう話だと自重気味に呟きながら、眠りについた。 起こされたのはジルの声だ。僕を呼ぶ。幼い頃と変わってしまった声色。昔の話ばかり持ち出すとジルに懐古主義なのぉ、と言われてしまいそうだけど、男の僕が泣いてしまうくらい、愛しい景色だったんだよ、ジル。 「充葉も、オレを許そうねぇ」 なんて自分勝手。 なんて傲慢。 けれど、僕には断れなかった。脈絡もなく、繰り広げられる会話のすべてに熱を受ける。痛みを感じる手首が、朦朧としてくるほど。双眸に移った景色が書き換えられて、全部、ジルへと移っていく瞬間が、僕の脳内でじわり、じわり、音をたてた。なんて、いうんだろうか。追いかけっこしながら、追われているような、イメージだ。凄く嫌いだけど尊敬できる上司がいて、反発していたのに、褒められて毒気を抜かれるのと似ている。僕を見ていたよという言葉の羅列を並べられて「こういう人が出世するんだろうな」と納得してしまう。ある種のすり替えであり、圧倒的な力を見て、自分が委縮し、認めざるおえない状況。 「ねぇ、充葉ぁん、お土産だよ」 手のひらを曝け出された。ジルは手についた血液が坂本のだと言い張る。自分は充葉へと余計な言葉を吐きだされた為、仕返ししてきてやったのだと、述べた。 脳内で繰り返し囁かれる「特別」という言葉の麻薬。 力が緩んでいく。 仕方ないじゃないか! とあれほどの葛藤の末、自立を見つけた僕の心が沈んでいく音が聞こえた。 だって、ジルみたいな素晴らしい人間に特別扱いされることは、とても気持ち良いことなんだ! そうだ。気持ち良いことなんだ。ジルに特別扱いされることは。知っているさ。僕は蜜を舐め続けてきた男なのだから。出来ることなら、ジルの特別枠に鎮座していたかったさ。けれど、ジルにとって僕は結局、二番手で、苦しくなって、逃げ出したんじゃないか。あの時感じた恥はどうなる。坂本に注意されて。指先が白くなるくらい恥かしい思いをしたじゃないか! 僕は! 指摘され、自分の愚かさに気付いたんじゃないのか。 僕はジルから逃れたい。 逃れ、たいんだ。 普段の自分でいられなくなる、思考回路の欠如を切り捨てたい。誰だって癌が出来れば腫瘍を取り除こうとする。僕だって、それを行うだけだ。ジルと一緒にいると、転落してしまうことは目に見えていた。すべての人間を魅了してやまない人間というのは傍にいるだけで、病原菌なのだ。僕は良く知っている。 ずっと、傍にいたから。 ジルがあの女の所へ行くより先に。 僕はずっと、ジルと一緒にいたから。 「けど、どうして……幼馴染はセックス、しない」 「型に拘るのぉ。どうでも良いじゃない。セックスする幼馴染がいても。それに、オレはねぇ、充葉にしか勃たないのぉ。他の人じゃダメなのぉ。だから、ねぇ、充葉ぁ、お願い。他人が何をいってもいいでしょう。オレが良いって言っていて、それとも充葉はオレを見捨てるのぉ」 ジルはあの女では勃たないんだ。勃起しないんだ。彼に、唯一、僕だけが、性的興奮を与えられ、ジルを快楽へと連れていける。 もし、誰かにあの女が馬鹿にされ、自分を遠ざけるという行為をすればジルは見せしめのように殺すだろう。僕の場合、殴る、で済む問題だが。仕方ないことだ、と割り切ることは出来ないが、唯一という確証が、嘘をつけないジルの口から紡がれることに電流が流れて止まらない。 中途半端で、立ち位置はなにも変わっていないさ。けど、気付けたものが、あるんだ。 ジルは立ち上がり僕の顎を掴む。坂本の血で濡れた手に包まれて体温が上昇する。唇と唇が触れあう。こんなに美しいジルの唇にキスしたことがあるのはこの世で僕だけなんだと思うと涙腺が緩んで泣けてくる。肉厚が咥内を犯し、蕩けるようなキスをジルはしてくれた。 「ジ、じる……」 「オレには充葉だけだよぉ」 そうだよ。 僕だけだ。 黒沼充葉という存在だけが、ジルをある意味で満たすことが出来るんだ。ジルの母親があげられないものを、僕、だけが、唯一。 恥じる必要はない。 僕は自分の欲望を満たす為ではなく、ジルにあげられるものを持っているんだから。 酷くその事実が嬉しい。 特別扱いされて嬉しかったことは幾度とあるけれど、今は祝杯を送りたいくらい、僕は、震えている。 「充葉ぁ、嫌なら、オレを拒絶するならオレを殴って」 嫌だなんて、言わるわけがない。 ジル。 まだ、不確かではあるけど、わかったことがあるよ。 僕はね、ジル、お前を幼馴染として見ているわけでも、親友と位置からのポディションで嫉妬しているわけでも、特別な存在として可愛がられている事実を受け入れているわけでも、どれでも、なかったんだよ。 ただ、強烈に、僕は 「僕には……できな、い」 僕はお前のことを愛しているんだね、ジル。 愛しているから、お前を満たせる自分という立ち位置がこんなに嬉しくて、頷くことしかできないんだね。 |