ジェリーフィッシュの夢





「あの子は出来が悪いからね」

自分の父があの子と言われることに違和感を覚えなくなったのは壱夏が何歳になった時だっただろう。物心ついた時からだったので、遠くない話だ。今みたいに、祖父の膝に乗り、自分が過ごした日常を語っている最中だった。壱夏は自分の父が起こした出来事を武勇伝のように脚色しながら、語っていただけだったのに、祖父の口から「あの子は本当に仕方ないね」という声が聞こえた。幼い壱夏は背筋がぞっと凍えるのを感じた。油断すれば食べられてしまう。母に読み聞かされたお伽噺の畏怖が籠もっていた。壱夏は成長すると共に「父は日々この言葉を聞きながら過ごしてきたのだろうか」と思った。
予想は当たっており、ネリエルは孫の前でも円滑な口調で父を蔑ろにした。壱夏は母の後ろで隠れながら、ずっと祖父から放たれる言葉を聞いていた。服を握る手は次第に強く頑なになった。振り返った、母が焦りを覚えるほど。
壱夏は泣いた。母に縋り付きながら嗚咽を飲み込んだ。悲しかったのだ。父を馬鹿にされた怒りではない。父を愛している癖に、自己否定を繰り返す祖父の心に彼女は涙を流したのだ。これでは父も祖父も悲しいままだ。言葉の端から端まで父を愛していることが分かる父なのに、祖父はあの子の後へ続く言葉ですべてを台無しにしている。素直に「愛しているよ」と陳腐なありふれた言葉で告げてあげれば良いのに。二人とも笑顔になれないことをどうして率先して行っているのだろうか。幼い壱夏は理解する術を持たず、母に尋ねた。
母は壱夏の頭を撫でながら目線を合わせた。母のこういう所が好きだ。目線を合わせ、自分を対等の人間として扱ってくれる。壱夏としては、私のような人間を対等に扱ってくれるということは恐れ多いけど、といった感情は付き纏うが、母が合わせた瞳の先にある光景がとても好きなので、甘んじて受容していた。

「壱夏には難しいかも知れないけど、ネリエルさんの中にある正義が邪魔しているんだよ」
「正義ってなに」
「む、難しいなぁ。正義っていうのは常識で常識が守るのは自尊心という盾なんだよ」
「壱夏には難しいよぉ、お母さん」
「ぼ、僕でも難しいよ」
「な、なるほど。ならば、致し方ないよ」

幼い壱夏に意味は理解出来なかったが母が告げた正義の二文字が脳内に媚び付き離れなかった。
今ならば、分かる。
高校生になった自分が幼さから脱却出来ていると壱夏は微塵たりとも理解出来なかったが、母が伝えたかった言葉は理解出来た。
正義とはなんとも厄介なものだ。祖父の、ネリエル・トゥ・オーデルシュヴァングの人生最大の敵といっても嘘ではなかった。膝の上に乗り、祖父に包まれていると良く分かる。彼は正義という言葉に捕らわれ盲目になっているのだ。誰でも善悪を決めるポイントはある。例えば、壱夏にとって人殺しは罪であり、悪に当たる。だが、とある人間の常識は人殺しは罪ではない世界があるかも知れない。つまり、正義か悪かを決めるこういったポイントが祖父は非常に明確なのだ。彼の常識も正義という名によって執行される。祖父の断罪ポイントに引っ掛からなければ保護され、弾かれれば裁かれる。弾くというのは自分よりその人間なことを下位に見ることに値する。祖父は自身の正義を武器として多くの人間を断罪してきたのだ。
若い頃は今以上に酷かったのではないかと壱夏は予想していた。稀に祖父は壱夏を抱き締めながら、自分は間違っていなかったと確認する双眸を向ける時がある。だが、祖父の瞳には迷いがあり、暗澹が濁るように混じっていた。
安堵を得る変わりに、祖父は後悔も一緒に味わっているのだと気付いたのは最近のことだ。祖父は自分にも厳しい人間であるのだから。
祖父の瞳を見ていて気付いたことがある。祖父はこんなにも深い後悔に満ち溢れているのに、父に「あの子」と告げるように直すことが出来ないのは誰もこの人を包み込むような愛情をもって「間違っているよ」と教えてあげないことが原因なのだ。父に母がいるように、自分にランがいるように、誰かが、「間違っているよ」と根気よく正してあげる必要があったのだ。

「お祖父ちゃん」
「なんだい、壱夏」
「あ、あのね」

自分で告げようと決意し口を開けるが壱夏の中から飛び出した言葉は空を切った。今、告げた所で何一つ、祖父には届かない。やり直しには時間があまりにも少ないのだ。老人と子供の差をこれほど歯痒くなったことはない。どうして自分はもっと早く産まれてこなかったのだろう。壱夏はこんなにも祖父のことを愛しているというのに。それこそ、父や母、ランと同じくらいに。深い愛で包み込んで、祖父が淋しくないように、一緒にいるのに。


「壱夏はね、お祖父ちゃんのこと、大好きだよ」


真っ直ぐに双眸を見つめ打ち明ける。

「けど、お父さんとお母さんとランとお祖母ちゃんも大好きだよ」
「そうだね」
「だから、あの、あのね、壱夏の大好きな人はお祖父ちゃんのこと大好きなんだよ。本当なんだよ」
「知ってるよ」
「知らないもん!」
「い、壱夏」
「お祖父ちゃんの知ってるよ、は違うもん。」

焦る祖父には癇癪を起こす子供としか写らないかも知れないが叫んだ。喉が擦り切れたって良かった。伝えにくい感情の膨大さを、壱夏は祖父に分かって欲しかったのだ。

あなたは愛されているし、愛することも知っているから、もっと、盾を壊してくれて良いんだよ






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