髪:思慕/慶次


誰も彼をつなぎ止めておくことなんてできないのだろう。

突然アパートを訪ねて来たと思えば、すっかりわたしの部屋に居座り始めた彼。何があったのか、事情を聞いたことはない。ここに来てからずっと電源が落とされたままの彼のケータイは、サイドテーブルに置かれたままだ。

「慶次の髪って、ホント長いよね」
「うらやましーかい?」
「そうでもない」

お風呂上がり。濡れてしっとりとした彼の髪を、ソファに座ってドライヤーで乾かす。明るい栗色の髪はさらさらのふわふわで、これだけ長いというのに枝毛の一本もなさそうだ。
テレビもなにもついていない部屋に響くのはドライヤーの音だけ。
彼は何も言わないけれど、近いうちにここを出て行く気なのだろう。
根拠はない。女の勘ってやつだ。
次に彼がどこに行くのか、わたしは知らない。友達のところか恋人のところか、はたまた生家に戻るのか。
彼はいつもわたしの話を聞いてばかりで自分のことはあまり話さないから、一緒に過ごした時間の割に、わたしは彼のことを何も知らない。
ただ、彼がどこか遠く、わたしの手の届かないどこかに行ってしまう気がした。
ドライヤーを当てながら、そっと彼の髪をひと房とる。さらさらと指から流れ落ちるそれに、彼に気付かれないようにそっと口唇を押しつけた。

次に目を覚ました時、部屋に彼の姿はなく、「ありがと」と書かれた紙だけがサイドテーブルに残されていた。


さよならも言わせてくれないなんてあんまりじゃない、ねえわたしが愛した最初で最後のひと


110906