紫煙が薄暗い部屋の空気に溶ける。気怠い躯を湿ったシーツに沈ませ、苦い煙で肺をいっぱいに満たす。情事後特有の香りに満ちた部屋に、煙草のにおいがまざる。体を重ねはじめた当初は何かとうるさかった彼も、一向に喫煙をやめないわたしに呆れたのか、口を開くことはなくなった。それでも気に入らないとあからさまに眉を顰める彼に気づかないフリをして煙を味わう。サイドテーブルに置いた灰皿にトンと灰を落とした。

「やっぱりわたし帰るわ」

随分短くなった煙草を灰皿に押しつけ、生温いシーツから抜け出す。ひやりとした冷気がむき出しの脚を這う。

「送るか」
「結構」

一糸纏わぬ姿のままシャワーを浴びに行く。無性に熱いシャワーが浴びたい。衣擦れの音がしたかと思えばすぐに熱が背中を覆い、太い腕が首にまわる。

「…なに、まだ足りないの」
「正直に言えば、な」
「明日に響くからもう嫌よ」
「ああ、わかっている」

低く響く声。耳元で囁かれるそれはこの男の二番目の魅力だ。普段から艶が混じった声に、情事中は色っぽい吐息が加わる。それだけでわたしの体は熱く火照るのだ。

「…やはりこのまま朝までいないか」
「嫌よ。誰かに見られたら困るもの」
「俺は別に構わない」
「冗談」

この男はわかっていない。その言葉が、どういう意味を孕むのか。

「給湯室の話の肴にされるのは御免だわ」

さらりとわたしの熱を引き出すような愛撫を施す腕を掴み、やんわりと引き剥がす。しかしすぐにその腕の中にとらわれる。真正面から彼の細く吊り上がった瞳と向き合う。

「俺は構わない」

珍しく覗いた彼の瞳は、冗談というにはあまりに真剣で、思わず一瞬息ができなくなった。

「…部長」

逞しくしなやかな胸をそっと押し返す。腰に回る腕の力がわずかに緩んだ。

「やっぱり送っていただけません?この時間にタクシーをつかまえるのは骨が折れそうだわ」

にこりと微笑んで首を傾げて見せれば、彼はしばらくの沈黙の後、ああ、と小さく頷いた。そんな彼の喉に小さく甘噛みをしてシャワー室に向かう。蛇口をひねれば熱いシャワーが降って来る。お湯が湯気を立てる。すぐに白むシャワールームでただただ頭からお湯を被る。

「゛愛してる゛」

小さく呟いたそれは音になる前にシャワーに掻き消される。火照る熱も痛む胸も、全て流されてしまえばいい。
一夜限りの甘い熱にほだされ火傷を負った。厄介な傷だ。じくじくと痛みを絶え間なく生み出す。この胸に孕んだそれはわたしを蝕みいつか彼をも呑み込む。それに気づかないフリをして蛇口をひねる。空は薄墨、夜が明けはじめている。あと数時間もすれば彼とわたしの間にあるのは上司と部下の関係だけ。それでいい。わたしにはこの熱はあつすぎる。彼の愛が重すぎるのと同じように。わたしにはあつすぎるのだ。

溺れるための愛と嘘




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