愛という不可視な現象に普遍も常識も並び立てることはできない。愛への介入を許可された物など何一つ存在しない。愛とは万物に対する治外法権である。当人同士が望むのならそこには倫理や人権も法律ですら意味を為さない。
愛すなわちそれは、狂気である。

彼との出会いを辿るならば私はまだランドセルすら背負っていない、愛も罪もセックスの意味も知りえなかった頃にまで遡らなければならない。当時受験生だった歳の離れた兄の高校受験のため、定期的に家を訪れていたのが彼だった。まだ少女の枠にもカテゴライズされない幼きわたしは息をするかのように当然のこととして彼が好きだった。幼いながら彼への執着心を抱いていたのである。初恋。確かに私のそれはそう呼称されるに相応しい感情であった。しかし幼い私に彼を惹きつけるような魅力が存在する筈もなく、兄の合格を期に徐々に顔を見せなくなった彼を引き止める術もなかった。

そうして年月が過ぎ、いつの間にか私は制服に身を包んだ高校生になっていた。周りより幾分早いセックスを経験した私は無感動で心の機微が少ない現代の若者を象徴するような無気力な人間へと成り代わっていた。そんな折に初恋の彼の人と邂逅した。あの頃と変わらないくすんだような赤い髪を無造作に流した彼の顔には確かな皺が刻まれていて、彼と自分の間に流れた年月の違いを思い知った。彼はくたびれた煙草をふかして妙に性的な指先で私の髪をすくった。今まで無感動だった私の心はこのときのために動くのを控えていたのだと言わんばかりに強く早い鼓動で胸の内側をたたいていた。やはり私は息を吸うように当然のこととして再び彼を好きになった。初恋の再来。しかし私は気付いていた。彼の左手の薬指に鈍く光る指輪の存在に。それは一回り以上離れているのだから、当然といえば当然のことだった。人間は生まれてから成人するまでで人生の半分以上を過ごしたことになるらしい。ならば残された多年の半分以下に安定を求め結婚という選択肢をとることはごく自然なことであると思えた。しかし私にはその指輪が錆びているように見えたのだ。所謂一般論を持ち出すのであれば指輪を認識した時点で諦めるか障害に感じるのであろう。まあ一部には逆に感情が昂る思考の持ち主もいるだろうが。しかし私にとってその指輪は障害でも興奮材料でもなく、ただのアクセサリの機能しか感じられなかったのである。数度に渡り逢瀬を取り付けた私に彼は自分のことを話してくれるようになった。所謂お互いの利害が一致したための打算的な結婚であったこと、しかしそれでも彼女を愛していたこと。だが最近はすれ違いの日々が続き、決して円満とは言い難い夫婦仲であるということ。私はひっそりと歓喜に震えた。彼が幸福な結婚生活を送っていたのであれば、私も大人しく身を引いたかもしれない。しかし彼のことを幸せにできない女のために彼が切なく目尻を歪めるのが、私には許せなかったのだ。彼は私が幸せにする。そう心に誓った。それからは計算の日々だった。如何に彼の心を占領するか。無意識下に自然に彼の心の中の私の領地を徐々に広げるのだ。不倫がどうしたというのだ。今の私にはその言葉の響きすら甘美なものにしかならない。愛しているから奪う。極自然の行為だ。人間という欲深な生物の極めて単純な行動理念。欲しいから奪うのだ。それ以上でもそれ以下でもない。私は、彼が欲しい。

「ね、いつになったら別れるの?」
「別れないさ」
「うそ、だってもう愛してないんでしょ?」
「そんなことはない」
「じゃあなんで此処にいるの?」
「可愛い妹が遊んでとねだるからだろ?」
「妹扱いなんてしたことないくせに」

クスクスと余裕に見せた笑みを貼り付けた顔には、僅かな焦りが見て取れた。いくら背伸びをしたところで所詮彼女は学生だ。心の機微を隠すにはまだ若すぎる。その青さに眩暈がする。虚勢と虚構に塗れた彼女はそれでもなお色香を放つ笑みをたたえている。末恐ろしい女だ。若さに溢れたきめ細やかな肌を辿り制服の裾から伸びる白い四肢に噎せ返るような甘美な香りがする。それらを視界から外すようにくるりと薬指の指輪を回す。彼女の眉が僅かにぴくりと跳ね上がった。嗚呼、堪らない。普段は等閑にする指輪も、彼女との逢瀬には欠かさずつけていく。そうすれば彼女の端正な顔がほんの一瞬だけ歪むのだ。焦燥、嫉妬、悔情、羨望、憤り、悲歎。それらを綯い交ぜにした表情を浮かべる。それが堪らなく可愛くて可愛くてぞくりと脊髄を衝動が駆ける。それだけで熱を孕む下半身を叱咤し、微笑んでみせる。会いたかった、と。そうすれば彼女は一瞬にして女のそれに表情を変え強請るのだ。


「あなたが欲しいの。シャンクス」


奥底に生きるそれが
逃げてとわらう



嗚呼でももう逃げ道などないのだけれど。

title.へそ