後悔ばかりの恋だった。泣きたくなるくらい幸せな恋だった。
彼の低い体温の背中にそっと寄り添うのが好きだった。煙草のにおいとまじった彼の香りが好きだった。彼の目の下の隈をそっとなぞるわたしに、不意打ちでキスを落とす彼の薄い口唇が好きだった。色素の薄い彼の髪をかき混ぜるのが好きだった。くすぐったそうに肩を揺らす彼の無防備な表情が好きだった。煙草を吸うときの顎のラインが好きだった。武骨で骨張った指がジッポの火をつける仕草が好きだった。よれよれのスーツに身を包んで緩慢な動作でわたしの頭を撫でてくれる彼の体温が好きだった。少しだらしない剃り忘れた無精髭が可愛くて好きだった。犯人を追い詰めるときの普段とは違う真剣な表情が好きだった。
「幸せ?」と尋ねると少しだけ困ったように微笑みながら「…幸せだよ」と答える彼の笑顔が好きだった。

「どうしたの?」

目を開ければ、心配そうに眉根を寄せた彼がわたしの顔を覗き込んでいた。

「…なんでもないわ。少し、悲しい夢を見ただけよ」

彼の指先が優しくわたしの目尻の涙を拭う。甘えるようにその手のひらに擦りよれば、彼の繊細な手がそっと頬を包んでくれる。

「マリッジブルー?」
「…そうね、きっとそうだわ」

彼はいつも、大切なものを扱うようにわたしに触れる。出会ったときから。そっと触れられたところからは慈愛や温かさばかりが伝わるものだから、わたしはいつも泣き出したくなるの。
彼の首に腕を回せば、ゆっくりと抱き起こされ、彼のにおいに包まれる。あの煙草の香りはしない。

「ねぇ、しあわせ?」

首筋に鼻をうずめ、囁くように尋ねれば、そっと体が離される。向かい合わせで見つめ合えば、彼の目元に小皺が寄った。

「しあわせだよ。しあわせすぎて、こわくなるくらいね」

ふにゃりと相貌を崩して笑みを浮かべる彼。困ったように微笑むあの人は、もうどこにもいない。

「…さ、そろそろ寝よう。折角のウェディングに寝不足は辛いからね」
「…えぇ、そうね」

そっと抱きしめられたままベッドの上で彼の優しい笑みに笑みを返す。彼はわたしの額にそっとくちづけを落としてくれた。


目を閉じれば思い浮かぶあの人の面影。風に靡く色素の薄い髪と薄茶のスーツ。無精髭と咥え煙草と、優しい色をたたえた瞳。
あの頃思い描いていた彼との未来は何ひとつ叶うことなく夢のまま終わってしまった。今、あなたじゃない他の誰かとしあわせになるわたしを見て、あなたはどうしてるかしら。お得意の困ったような微笑みを浮かべながら、幸せになれよって手でも振っているの?
微睡みの中で優しい声がわたしの名を呼ぶ。
あなたを愛したことが思い出に変わって、あなたを思って流す涙は過去になった。あぁ、それでも。あなたを思って流す涙は今夜で最後よ、狡いひと。
手探りで温かな彼の背中に腕を回してキツく抱き締める。

彼なんて思い出す暇もないくらいわたしを愛してね、ダーリン!

あなたも泣いてるって
せめて思い込むことにする


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