廻る、廻る、記憶の渦。
極彩色のフラッシュバック。
赤と黒と鈍色と侵される白の夢。
劈く悲鳴と耳のすぐ後ろで鳴り響く心臓の音。
嗚呼、これは、アクムだ。

滲む汗とうるさいくらいに鳴り響く自分の心音で目が覚めた。いまだに脳裏にこびりついている赤。脂汗をかいた背中がじっとりと冷える。胸を両手でおさえてベッドの上、前かがみで何度も何度も呼吸を繰り返す。ようやく波の音を聞き取れるくらいに落ち着いたとき、コンコン、とノック音が簡素な部屋の中に響いた。起きてるか?ドア越しにかけられた声は少しくぐもっているけれど、一番大好きな音。サッチの声だった。慌てて返事を返せばドアがキィと鳴いて軋む。開かれた先に少しだけ眉根を下げたサッチが立っていた。どうしたの?ん、なんか目ェ覚めちまって。後ろ手にドアを閉めたサッチがベッド脇に置かれた机から丸椅子を引っ張って来て腰掛ける。…嫌な夢でも見たのか?わたしの顔を見るなり眉間に皺を寄せて心配そうに覗き込んでくるものだから、彼には本当に隠し事ができない。サッチの常磐色の瞳の前では、わたしの嘘も誤魔化も通用しないのだ。…ちょっと怖い夢見ただけだよ。顔にかかった髪を耳に掛けながら微笑めば、柄にもなくサッチは泣きそうな顔をした。どうしたの?…いや、なんでもねェ。なんでもないって顔してないのに、そう嘯く彼は少しずるい。でもきっと一番ずるいのはわたし。なぁ、一緒に寝てもいいか?さっきまで寝ていたからだろう、いつもの髪型ではなく両脇に流された髪を掻き上げながらサッチはわたしの目を覗き込む。ふふ、シングルベッドでよろしければどうぞ?心配しなくても落としたりしねぇよ。落としたらもうちゅーしてあげないから。罰が重すぎやしません!?軽口を叩きながら壁際に体を寄せれば、サッチの大きな体が毛布を割って潜り込んでくる。予想通り、シングルベッドの中はぎゅうぎゅうのキツキツ。だから言ったでしょ?お前を抱き枕にするから問題なし。拒否権を行使します。その拒否権に拒否権を行使します。クスクスと笑い合いながら他愛ない会話を交わす。緩慢な動作で伸びてきた太い左腕が優しくわたしの背中に添えられて広いサッチの胸に引き寄せられる。触れ合ったところから伝わるお互いの体温が溶けてひとつになる。とろり、と落ちてきた目蓋にサッチの口唇が降って来た。…おやすみ、サッチの甘い声が耳元でわたしを眠りへと誘う。おやすみ、と返そうと開いた口からは音は漏れず、ただ寝息がこぼれるだけだった。

廻る、記憶の波。
フラッシュバックする断片的な景色の切り絵。
濡れた赤、生温かい感触。止まらない濁流。
暗転、断線、千切れる意識、浮上する眩暈。
急激に頭の中を血が行き巡ったような感覚を覚えて飛び起きた。慌てて周りを見回すもなんの変哲もない自分の部屋でホッと息を吐き出した。バクバクと未だうるさく鳴り響く鼓動をおさえつけてベッドから足を下ろす。眩暈のする頭をおさえながら備え付けの冷蔵庫の中から水を取り出して呷った。灼けるように熱かった喉を通る冷たい水に、ようやく息ができるようになる。小分けにして水を口に含みゆっくりと深呼吸をした。不意に扉の向こうから名前を呼ばれて遠くに行っていた意識がふっと戻る。聞き慣れた低い音に扉を開けるように促せば、少しの間のあとにドアが開き、隙間からサッチが顔を覗かせた。どうかしたの?尋ねるわたしにサッチはいや…と言葉を濁してから大きな体躯を部屋の中に潜り込ませた。サッチ?普段とは明らかに違う様子に首を傾げれば、部屋を大きく見回したサッチの強張っていた眉間が弛む。悪い悪い、なんかお前に呼ばれた気がしてよ。なにそれ。ふふっと息をもらしたわたしの傍までやって来た彼は、わたしの手から水の入った瓶を取り上げる。了承もなく喉を潤すサッチの腕に軽いパンチを入れて空になった瓶を受け取った。で?なにがあったの?机の上に瓶を置き、ベッドに腰掛ける。困ったように眉根を下げたサッチが何の前触れもなくわたしの額にそっとくちづけを落とす。突然のことに目を見開けば、相変わらず眉尻を下げて笑うサッチの姿があって、言葉にしようとした音を飲み込んだ。なんでもねェ。ちょっと、顔が見たくなっただけだ。遅くに悪かったな、そう言って立ち去ろうとするサッチの服の裾を思わずつかんだ。…サッチ?彼は振り返らない。明らかに様子がおかしいサッチに言いようのない不安に駆られ、その背中に抱きつきお腹に腕を回す。…ねぇサッチ、今夜は一緒に寝ましょうよ。わたしの突然の誘いに、彼の肩がぴくりと動いた。今から部屋に戻ったら体が冷えちゃうわ。気づかないフリをして言葉をつらねるわたしはずるい女。でも、ねえお願いだから振り向いて。少しだけ力をこめて擦り寄れば、くるりとサッチの体が反転した。それは床のお誘いと受け取っても?エッチ。知ってる。口唇に降ってくる柔らかな熱を受け止めながらベッドに沈む。何度も何度も降り注ぐやさしいキスに目を細めれば、サッチはとろけるような優しい笑みを浮かべた。あまりに心地よい体温のふれあいだったから、ついウトウトしちゃって、気づいたら意識は睡魔にさらわれていた。眠る直前、サッチが何かを呟いていた気がするけど、聞き取ることはできなかった。

廻る、記憶の束。
何度も何度もフラッシュバックする赤。
ナイフの先、木目の間、白い布、黄色いスカーフ。
急速に冷えていく体にすがりつく。
倒れているその後ろ姿は、

がばりと跳ね起きてから思考が停止した。何度も何度もチラチラと目蓋の裏を点滅する光景は次第に曖昧に瞬きの間に薄れていった。ハッハッと荒くなる息をおさえるように何度も飲み込んでバクバクと体内から叩き割るように鳴り響く心臓をおさえつけた。しばらくシーツを握って息を整えれば、ふと誰かの視線を感じた。視線を巡らせれば、ベッド脇に腰掛ける、サッチの姿。…サッチ…?まだ少し乱れた息のまま彼の名を呼べば、サッチは今にも泣きそうな、困ったような笑みを浮かべた。さ、口を開いたけれど、言葉が音になることはなかった。掻き抱かれた体。サッチの大きな体にすっぽりとおさまってしまうわたしの小さな体をぎゅうぎゅうに抱きしめて、サッチは詰まった息を吐き出した。耳元で名前を呼ばれる。包まれた体温は感じることができないのに、肩にしみる温かさだけは伝わってきた。泣いてるの?声には出さず呟いて、広い背中に腕を回す。そうすればサッチの腕はより強くわたしを掻き抱いた。サッチの息が途切れる。わたしの息が止まる。波の音すら聞こえなくなった部屋の中で、サッチの声だけが響いた。


「ごめんな」




医務室のベッドに横たわる彼女のベッドの脇に腰掛けて、随分と痩せこけてしまったその寝顔を眺める。もう、2ヶ月も目を覚ましていないのだ。点滴で栄養分を摂取させているとはいえ、みるみるうちにやせ細っていく彼女の姿は悲痛で、多くのクルーが目を背けた。サッチが亡くなった翌々日に、彼女は夢から覚めなくなった。船医の話によれば、ショックによる精神病の一種だそうだ。直接的に命に別状はないものの、いつ目覚めるか、そもそも目覚める日が来るのか、それすらもわからないそうだ。

ティーチに刺殺されたサッチを一番最初に発見したのが彼女だった。最愛の恋人の死を目の当たりにし、彼女の中の何かが壊れてしまったのは一目瞭然だった。ただ、それに気づけなかった。いや、気づいていたが、何も言うことができなかった。サッチの最期を見送ったときの彼女の横顔を見れば、わかっていたはずだった。

サッチを失った世界で、彼女が生きていけないことくらい。

そうして彼女は自らに暗示をかけた。サッチがいない現実から目を背け、夢の世界へと逃げたのだ。何度も、何度も、あの日を再生してはデリートして、己の中で作り上げたサッチとの逢瀬を楽しむ。彼女はその道を選んだ。サッチのいなくなった世界で生きるのではなく、夢の中でサッチと共に生き続けることを選んだのだ。

「馬鹿な女だよい」

本当に、馬鹿な女だ。日に日に衰弱していく彼女を見つめることしかできない、残された家族の想いすらも凌駕して。

「そんなにサッチはイイ男かい」

泣きながら問いかけたところで、返って来る声はない。
彼女はただ眠りの中で何度も何度もあの日を繰り返す。何度も何度も、愛しい男を作り上げては殺すのだ。


モンスタァ・ナイト

企画うらみごと様提出
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