いつかの約束をあの水面に託したの。「元親さまは赤い糸を御存じですか」春は訪れぬ。空は灰色の陰を落とし風は阻むものを凍らせんとその刃を持って吹き荒ぶ。揺れる赤が陶器の懐で爆ぜその存在を主張していた。合わせた背中は温かく全てを受け入れんとする男の器の大きさだといつだったか彼女は言った。「運命のおひととは小指同士が結ばれているそうで」紡ぐ言葉は数あれど、彼女の口から溢れる言の葉は寒空に弾け鼓膜を心地よく震わせる。「けれども必ずしもお慕いしているお方と結ばれているのではないのです」伸ばされ触れた手のひらを無意識下に包み込めば、今にも落涙しそうな彼女が嗚咽を堪えるかのように眉根を近づけた。弾けた赤が立てた震えを風が攫う。もうすぐ柔らかな真綿のように真白い雪がこの四国にも舞い落ちるのだろう。強者の上にも、弱者の上にも。天の賜物は平等だ。人の治める天下を嘲笑うように民の全てに平等に恵みを与える。それを制するは神か仏かはたまた鬼か。「んなもん引き千切って、名前の小指の糸を俺の小指の糸と結ぶ。それでいいだろ」鬼が食らうは女の小指。鋭き八重歯で引き千切るは赤き血肉か赤い糸とやらか。ふるりと女の濡れ鴉のように黒き睫毛がそうと扇情的に伏せられ、柔らかな頬に影を落とす。「元親さまは、乱暴です」桃色の熟れた滑らかな頬を惜しげもなく晒し、女は緩やかに鬼の小指を自分の其れと絡める。鬼の腕がまるで彼女を戒めるかのように女に絡みつきその口唇に囁かな口づけを落とした。いつかの約束をあの水面に託したの。いつかの約束をあの水面に託したの。噎せ返る血と鉄と火薬の臭いに吐き気が込み上げる。がくがくと膝が笑い視界が歪む。握り締めた拳に果たして意味はあったのだろうか。「ねえ、元親さま」地に伏す濃紫。傍らには無残にも圧し折れた鬼の碇が寄り添っていて。ゆっくりとその傍らに膝を突けば、輝く銀色が赤に侵され赤黒く染まった地にざんばらに散っていた。「やくそく、」ひんやりと冷たい小指に自らの小指を重ね合わせれば彼の御方の腹部やら肩やらを汚す赫が私たちの小指を繋ぐ。「や、くそく、」何度繰り返しても、何度名を呼んでも、何度小指に力を入れても、彼の御方の息が再び地面の塵を巻き上げることはなく、瞳から溢れ落ちた雫が頬を伝い愛しい御方の頬を濡らす。「……やくそ、く」戦場に散るのは紫を纏った愛しい鬼。南から飛ばされて来たのだろう早咲きの桜の花弁がまるで彼の御方を弔うように舞う。「…もと、ちか、さま」春は訪れぬ。彼の御方の閉ざされた瞳はもう何も、何をも写すことはないのだ。―― 重ねた赤い糸すらも。「あ゛あぁああ゛ぁああ」赫を纏いほどけた小指の悲痛な叫びは、儚くも全てが終わった戦場に虚しく響き渡るだけだった。桜 の 骨