バイト帰り。
疲れてへろへろの体を無理矢理引き摺ってお風呂に入り、未だしっとりと濡れている髪を肩にかけたタオルで拭う。ようやく上着が必要なくなったとはいえ、夜はまだまだ肌寒い。温かい飲み物でも淹れようかと考えながらぼんやりと縁側を歩いているときだった。

「…、」

真っ黒な夜空に浮かぶ真っ白なお月様を、煙草の白い煙をくゆらせながら呆と眺めるお館さまの姿を捉えたのは。

「……」

月明りに照らされ、そこだけぼんやりと浮かび上がったみたいにお館さまは柱に身を預けて佇んでいる。いつもならすぐに気がつくはずの私の気配にも気付かないまま、ただただ空を見上げるその姿に、知らぬ間にそっと息を潜めた。

(…たばこ、吸うんだ……)

控えめに吐き出した吐息は、音を生み出すことなく虚空に消えた。骨張った指の間に挟まれた煙草が、じんわりと燻り、短くなっていく。

「……おぉ、名前か、」

不意にお館さまがこちらに視線を向け、そっと息を潜めていた私はいとも簡単に見つかってしまう。
薄雲が月にかかり、視界が僅かに陰った。

「…ただいま、です」
「うむ、おかえり」

いつもみたいに柔らかな笑みを浮かべて私を迎えてくれるお館さまのその笑顔が、何故だか酷く寂しそうに見えて。ざわり、胸の奥底が大きく波立った。

「…たばこ…」
「ん?…あぁ、これか…」

見つかってしまったのぅ、
悪戯に微笑むその顔ですらどこか寂しげで、胸がきゅうと締め付けられる。何故だか酷く、泣きたくなった。

「おいしい、ですか?」
「ん?」
「たばこ、…おいしいですか?」

視界が潤むのをごまかすように、お館さまのすぐ傍までとことこと歩み寄り、濡れ縁に腰掛ける。わずかな月明りの中でも、お館さまがびっくりした顔をしているのが分かった。

「…いや、昔は好き好んで吸ったもんじゃが、…今は駄目じゃの」
「…年?」
「…お主もなかなか言うの」

わしちょっと傷ついた、
なんて嘯いてシュンとしてみせるお館さまの顔を横目でちらりと盗み見、夜空を見上げる。
背筋が凍るくらい、綺麗な満月だった。


"今日は大将の奥さんの命日なんだよ"


朝、同じ武田荘の下宿人の佐助が、口唇に人差し指を当ててこっそり教えてくれた。
私がお館さまに出会う前、佐助と幸村がお館さまに預けられる前、私たちが生まれるずっと前に、お館さまの奥さんは亡くなられたらしい。もともと病弱で、結婚して一年足らずで奥さんは亡くなられたと聞いたことがある。けど、私は一度もお館さまの口から直接奥さんのことを聞いたことはなかった。

…もう、過去のひとなのだと思っていた。お館さまにとって、そのひとは。

過去を重んじ、未来を見据えるために必要な、大切な想い出なのだと思っていた。今、までは。

「…ずるいなあ……」
「ん? 何か言ったか?」
「…なんでも、ないですよ」

ぽつり、お月様に向けて漏らした微かな呟きにもお館さまは反応してくれる。

ずるい、ずるいおひとだ。
死んでなお、お館さまの心を縛っているなんて。

「…名前、」
「うん、」
「…ちとこっちに来てくれんか」

小さく、本当に小さく呟かれたそれは、ともすれば聞き逃してしまうほどの大きさで私の鼓膜を震わせ、私をお館さまへと引き寄せた。

刹那、

ぎゅう、と力強く抱き締められた身体。お館さまの胸に顔を押し付けられて私はすっぽりとその逞しい腕の中に収まってしまう。力加減など知らないかのように強く、強く掻き抱かれ、息が詰まる。まるで息の仕方を思い出すように、ただただ口をぱくぱくと動かした。

「お、やか、たさま……」
「…今だけ、……今だけ、"信玄"、と呼んではくれんか……」

ぽつり、
紡がれた低い声は、いつもからは想像もつかないほどに弱々しくて、微かに、震えていた。

「、しんげ、ん……」

途切れ途切れ、吐息とともにそう名を呼び、お館さまの広い背中に腕を回した。そうすればお館さまは、まるで私を窒息死させるみたいに抱き締める腕の力を強くする。


「名前……、」


押し付けられた胸元から、いつもと違う香りが鼻をかすめる。青白い月明かりに照らされ、縁側に落ちたふたりの影が、儚く揺れた。


今日がさいごのの真似事
(今、このひとの腕の中にいるのは私だけれど、きっと私は一生かかっても貴女には勝てないのでしょう)
(ねぇ、本当に、)

((ずるいひと))



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100516 お館さま初書き