( おかしい… )


俺の、忍としての勘がそう告げていた。

近隣の敵国視察の任務を大将こと武田信玄公から受け賜り文字通りあちこちを飛び回り優秀な部下も総動員して敵情視察をしていた俺はひとり尾張へと来ていた。尾張といえば絶大な勢力と圧倒的な力で侵略し捩じ伏せる自らを第六天魔王と名乗る織田信長の拠点の地である。いくら俺様の優秀な部下でも尾張の視察をひとり任せるのは荷が重すぎる。それに捨て駒として潜入させたとして何も得られずただ殺されるだけならまだいいが大将のことや武田もしくは甲斐のことまでも口を滑らせられたりしたら非常に面倒くさいことになる。だったら多少の危険を冒してでも俺様が独り潜入した方がまだいい。死ぬ気はさらさらないがいざとなったら自害する覚悟もある。拷問されて大将や旦那の名前を口走るくらいなら敵に己の死体を晒し犬死にする醜態を受け入れることだってできる。まぁ拷問されても口を割らないだけの自信はあるけど。
そんなこんなで俺はかなりの覚悟を持ってこの尾張の地へと足を踏み入れたわけだが。

(おかしい…)

あんまりにも事がうまく運びすぎているのだ。尾張に潜入してから未だに国境の斥候2、3人しか倒していない。いくら今この時期に他軍が目立った動きを見せていないからといってこれはおかしすぎる。せめて忍のひとりかふたりを城囲いの森の中に潜ませておくのがこの戦乱の世の常識というやつだ。ここまで守りが弱いとは予想外もいいところ…。

もしや、

咄嗟に浮かんだ己の思考を熟考する間もなく、一陣の風の如き黒い影が俺様の前に躍り出た。

(っはやい…っ!!)

慌てて取り出したクナイに競り寄る己の手に持つものと同じそれが微かな月明かりに照らされきらりと輝いた。

(くそっ……!)

攻撃に転じようにもあまりの疾さに目が追いつかない。本能や感覚に近いそれら第六感で敵の動きを把握し、身を翻して度重なる攻撃から己の身を守る。

キィインン……

耳を劈くような甲高い音が響き敵と己の間にある程度の距離が生まれる。はあはあと乱れる呼気を整えるように肺一杯の空気を送り込む。冷や汗が鉢金の下をつうと伝いいつ切ったのか頬の傷にちりりと沁みた。


「さすけお兄ちゃん……?」


常人には計り知れない位鋭い俺様の聴覚がそんな微かな声を聞き取った。鈴の鳴るような軽やかなその声はこの場には酷く不釣り合いで俺は思わず汗を拭いながら声のした方へと目を向ける。そこには漆黒の装束を纏い長い黒髪を風に遊ばせた美しい少女がひとり。黒光りするクナイを片手に口元を覆っていた布を静かに引き下げていた。


「やっぱり、先輩だ」


全く変わらない表情の代わりに髪と同じ真っ黒な瞳が僅かに細められる。どくりと心の臓が大きく脈打つ。


「なに、あんた。俺様くノ一の知り合いなんてひとりしかいないんだけど?」


どくどくと不規則な脈を刻む胸のうちを隠すように虚勢を張る。声を震わせないようにするので精一杯だった。


「それってかすがお姉ちゃんのこと?」


思わぬ人物から思わぬ人物の名が紡がれまたどきりと心の臓が跳ね上がる。先刻から自らを襲うこの名も知らぬ焦燥感の答えを探すも見つからず余計に頭を混乱させる要因にしかならない。


「あんた、一体……」


今宵此の宵闇を支配していた厚く重い雲の切れ間から切り裂くような月光が舞い落ちる。その月明かりに照らされるように少女の姿が闇の中にぼうと浮かび上がった。靡く黒髪に吸い込まれそうになる程深く黒い瞳。儚さを湛えたその顔立ちにはまだ幼さが残るその相貌は確かに己の脳裏に薄れる事無く焼き付いている一人の人物とかちりと一致した。


「名前……?」


無意識の内に口から零れたその名に自ら驚く。有り得る訳がないのだ。あの子が此処に居るなど。あってはならないのだ。だというのに。


「その名で呼ばれるのは久方振りです」


あの頃とは比べ物にもならない位大きくなった名前はあの頃とは比べ物にならない位哀しく穏やかな笑みを浮かべた。




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