「別れてくれ」
「……わかった」

これで何度目の別れか。
なんの表情も浮かべることなく去って行った政宗の後ろ姿をぼうと見送りながら手元で震える携帯の通話ボタンを押した。

「もしもし、」
『もしもし?今日コンパあんだけど来れる?』

声を掛けた途端男の軽薄な声と共に雑音と化したBGMが聴覚を襲い、普段なら気にならないそれらが非常に不愉快だった。

「ごめん今そーいう気分じゃない」
『え、ちょ、』

男の返答を聞く前に電源ボタンに親指を掛けた。怪訝そうな声がツーっという無機質な電子音の向こうに消える。そのままボタンを押し続ければ真っ黒になった画面に無表情なままの自分の顔が映ってそれさえも酷く不愉快で、ばちんと乱暴に携帯を閉じた。

”別れてくれ”

この台詞を彼の口から聞くのは一体何度目だったか。記憶の糸を辿り指を折り曲げていけば、ちょうど彼からもらった指輪がはめられた薬指で止まった。

私が、悪いのだ。嫉妬させることでしか政宗を繋ぎとめられない、愛を感じられない、私が。
ジーンズのポケットに手をつっこめば、今日返そうと思っていた政宗の煙草が人差し指に引っ掛かった。決して煙草は得意な方じゃない。むしろなんでこんな苦くてまずいものにお金をかけて自分の寿命をわざわざ縮めなければならないのかと思う。くしゃくしゃと形の崩れた箱から煙草を一本取り出し、口に咥えて簡易ライターで火をつける。人差し指と中指で挟んだそれをすうと吸いこめば、途端に苦い煙が肺に押し寄せる。噎せることはなかったけど、不快感は拭えない。ガードレールに体を預け煙を全て肺から除き去るくらいに大きく息を吐き出す。灰色の煙がゆったりと辺りを漂い宙へと霧散する。通行人の何人かが迷惑そうにこちらを見ていたが、見えないふり。悪いけど今は不特定多数のだれかを気遣う余裕なんてない。自分のことで精いっぱいなのだ。

深く深く煙を吸い込めば、体中が政宗の香りで満たされる。それを味わうようにゆっくりと瞳を閉じた。

一回目の浮気は、そう。政宗と付き合いだして2ヶ月くらいのことだった。政宗に不満があったわけでも、愛されていないと感じたわけでもない。ただ、不器用だっただけだ。こんな煙草を吸えるような歳になってまで不器用という言葉ひとつでなんでも許されるとは思っていない。ただ私は普通の恋愛の仕方がわからなかった。政宗にどうしたら愛してもらえるかがわからなかっただけ。それで浮気をした。執着心を見せてほしかったんだと思う。結果は破局。当然だ。別れを告げられて当然のことをしたのだから。
だけど政宗はよりを戻したいと言った。なぜかはわからない。けれどそれが嬉しかったのは言うまでもなく、ふたつ返事で了承した。
2回目の浮気は、お互いだった。ふたりして浮気して嫉妬してもう修羅場もいいところで、お互いの友人である佐助に仲介者になってもらって話合いの場を設けたけれど、もうどうしようもなくて別れた。今度は私からだった。
でもしばらくしてまた政宗は戻ってきてくれた。かといって私の浮気癖がなおることはなく、結局今回も同じ。より戻してお互い傷つけあってぼろぼろになって別れる。けど、きっとこれで最後の気がする。
何か確たる証拠があるわけではない、けど、曲がりなりにもこの2年間政宗の傍にいた人間としての予感ていうか、曖昧な確信。だからかもしれない。こんな、政宗の煙草を吸って感傷に浸るなんて、らしくないことをしているのは。
ちょうど指にはさんでいた煙草の火がじりじりとその白い肢体を侵食していく。とんっと指の先で軽く叩けば吸い込まれるように灰が地に墜ちていく。だいぶ短くなった煙草にもう一度口をつければ、さっきよりも苦みを増した煙が肺を満たす。不意に政宗の顔が頭をよぎった。

(あー…)

不意に鼻がつんとして、目頭が熱くなる。やばいと自覚すればするほど涙腺は緩み、視界が揺らいでいく。

(やっば……)

ふうと紫煙を吐き出すのと同時に瞳に溜まった雫がいとも簡単にぽろりとこぼれ落ちた。やっぱり、らしくない。こんな、政宗の煙草吸って、政宗とのキスの味、思い出して、泣くなんて。そうは思っても制御できない涙腺からは次々と熱い雫が溢れていく。
前を横切る通行人が何事かと目を見開いているのを視界の隅で捕えた。慌てて煙草を持っていない方の腕の袖でごしごしと乱暴に目元を拭うけど、涙は一向に止まる気配を見せない。

「Hey,なに勝手にひとの煙草吸ってんだよ」

煙草を握ったままぼろぼろと溢れる涙と格闘していると、不意に掌からくしゃくしゃの煙草の箱を抜き取られた。聞き間違えることのない低い声が頭上から降ってきて、思わずびくりと肩を跳ね上げてしまう。政宗は乱暴な手つきで私から取り上げた箱から煙草を取り出すと、これまた乱暴な動作で火をつけ、私のすぐ隣でガードレールに寄りかかった。何も口にすることはなく、ただ無言で空を見上げなら煙草を吸う政宗に私も立ち去るタイミングを逃し、目元を拭いながらぐしゅっと鼻をすすることしかできなかった。

「…なあ、」

不意に政宗の心地良い低い声が耳をくすぐった。潤んだ瞳のまま隣りを見遣ればずいっと目の前に小さな箱を差し出される。私の手からもうすっかり短くなった煙草を取り上げ、代わりとばかりその箱を押しつけて来る政宗。ようやくその掌よりも随分と小さな箱に視線を落としてから、携帯灰皿に煙草を押し込むその姿を呆然と見つめた。

「ま、さむね…、これ……」

掌の中で存在を主張する藍色の中におさめられていたのは紛れもない私の右手の薬指に光るものと同じ、いやそれよりも上質なもので。政宗は咥えていた煙草をさっきと同じように携帯灰皿に押し込んだあと、その左の隻眼で私を貫いた。

「Please marry me」

私の手から取り上げたその指輪を優しく左手の薬指へとはめる政宗を思わず凝視してしまう。そうすれば政宗はそのまま指輪の上から私の薬指にくちづけを落として。なにがなんだかわからず頭が混乱して、だけどぽろりと涙をこぼした私を政宗はその両腕で優しくとらえた。

「何回裏切られても、駄目なんだよ」

政宗の声が、抱きしめる腕が、どくどくと命を刻む鼓動が、私を愛しいと叫んでいる。骨がきしむほど抱きしめられて、苦しいはずなのに幸せで。やっぱり、私は政宗がいなくちゃ生きていけない。そんな馬鹿なこと、改めて思った。

「これで、簡単には離れられねえからな」

ちゅっとひとつ私の赤く腫れた目蓋に優しいキスを落とし、政宗はこつんと額と額をくっつけてくる。間近で見つめる政宗の左目が、あんまりにも優しくて、また緩みだした涙腺に喝を入れた。

「一生、放してやんないんだから」

ぐじゅりと鼻をすすりながら睨むようにそう告げれば、政宗は一瞬驚いたように目を見開いて、それからくしゃっと嬉しそうに破顔した。

「そうしてくれ、」

ひとつになれないぼくら
(だからお互い抱きしめ合って)
(そうして愛を確かめるの)


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