その日は、うだるように暑い夏の日だった。
こんな湿度の高いじめじめした日に体育なんてやってられないよねー、と、仮病を使って程よくクーラーの利いた保健室で真っ白なベッドのひとつを占領していたときのこと。
ガラガラとドアの開く音と、女性保健医の甲高い声が今までずっと静寂を保っていた保健室に突如として響いた。


「倒れたんですか!?」
「多分、暑さにやられたんだと思います」


よくよく聞き慣れた声にもそもそと起き上がり、部屋とベッドを仕切るカーテンの隙間から様子を窺う。
そこには、ひとりの女子生徒を抱えた右目の旦那が立っていた。


「お、右目の旦那役得だねー」
「…サボりか」
「ひっどいなー俺様こう見えても病弱なのよーげほんげほん」
「ぬかせ」


くだらない会話を交わしながらも、観察は怠らないのが俺様の癖っていうかなんていうか。上履きの色が俺たち2年とも1年とも違うから3年の先輩。顔は見えないけど、知り合いってわけじゃなさそう。
不躾な俺の視線に気付いたのか、右目の旦那は身体を捩って、俺の視線から抱えた先輩を隠した。


「片倉先生、ここに寝かせてください!」


ベッドの準備が整ったのか、保険医の慌ただしい声が響く。俺様の隣りのベッドにさっさと歩み寄り、右目の旦那がそっと抱き抱えた先輩をベッドに寝かせる。その一連の動作が、まるで恋人同士のようなそれに、柄にもなくどきりと心臓が跳ねた。


「ちょっと私職員室に生徒リストを取りに行ってくるので、片倉先生、苗字さんのこと看ていてください!」


横になった先輩の汗を拭い、額に冷えピタを貼りつけ終えた保険医が慌ただしく保健室を後にする。
さすが新任の教員。一片たりとも落ち着きがない。
この隙に苗字先輩とやらの寝顔を拝んでやろうと身を乗り出した瞬間。
ごつんっと鈍い音を立てて右目の旦那の拳が俺様の脳天に振りおろされ、そのまま勢いよくカーテンを横に引かれてしまう。


「いってえ!!」
「見てんじゃねえ阿保」


カーテン越し、凄みのきいた右目の旦那の声が響き、ちぇーっと腕を枕にして大人しくベッドに全体重を預ける。

しばらくの痛いほどの静寂のあと、「ん…」というかすかな吐息が聞こえて来た。


「目ぇ覚めたか」
「か、たくら先生…? なんで…」
「お前授業中に倒れたんだよ」


カーテン越しに聞こえてくる、そんな会話。軽やかな鈴のような音色の声が、印象的だった。


「ご、ご迷惑をおかけしてスイマセン…」
「馬鹿か。んなこと気にしてねぇで、自分の体の心配しろ」
「スイマセン…」


あーあ右目の旦那ったらそんな言い方したら女の子が恐縮しちゃうでしょーが。相変わらず口下手だねぇ。


「どっかつらいか?」
「ん…頭が、少し痛むくらいで…あとは大丈夫だと思います」
「そうか。水、飲めるか?」
「あ、ありがとうございます」


静かな保健室にこくこくと水を飲む音が響く。カーテン越しに聞こえるそんな些細な音が、なんとなく、エロいなと思った。


「大丈夫そう、だな」
「あ、はい!」
「俺は授業に戻るが…」
「わかりました、」
「それじゃ、安静にしてろよ」
「あ、あのっ」


ベッド脇に置いてある丸椅子からすくりと立ち上がった右目の旦那を慌てた様子で呼びとめる先輩。


「…ありがとう、ございました…」


語尾になるにつれて、ぽそぽそと小さくなる声。
ここからじゃ顔は見えないけど、きっと羞恥に赤く染まっているんだろう。

(可愛いひとだな、)

不意に、そう思った。
可愛くて、わかりやすいひとだ。


「あぁ」


カーテンに写った右目の旦那の影が、わしゃわしゃと乱暴に先輩の頭を撫でてから右目の旦那は保健室を後にした。








右目の旦那が保健室から出ていったのを足音で最期まで確認したあと、さっと勢いよくベッド同士を仕切る薄手のカーテンを開ける。


「どーも。大丈夫?先輩、」
「わっ、あ、ありがと…えと…」
「俺様は猿飛佐助だよ」
「あ、ありがと、猿飛くん」


開けた先。
上半身を起こしたままぼうっと右目の旦那が出ていった先を見ていたセンパイは、意外や意外。なかなか可愛らしいひとだった。


「先輩のお名前は?」
「名前、苗字名前だよ」


先輩にぴったりの素敵な名前だね。
そう言って微笑めば、先輩ははにかみ恥ずかしそうに笑った。

右目の旦那の授業だったの?
右目の旦那?
片倉先生のこと。
あぁ…うん。丁度LHRで…。
ってことは右目の旦那が担任?うへぇ大変でしょ。あの人厳しいで有名だし。
うーん、確かに厳しいときもあるけど、生徒のことちゃんと考えてくれてる、イイ先生だよ。
…ふぅん


「先輩、右目の旦那のこと好きでしょ?」


突然の俺の言葉に、先輩は驚いたように目を丸くした後、困ったような笑みを浮かべた。


「困ったな。初対面の子にまでバレちゃうなんて」


そう微笑む先輩に、何故だか胸の奥がじくじくと疼いた。


「……無謀だね」
「うん、わかってる…けど」


呟き、そっと宙を仰ぐ先輩。
その横顔は、やわらかで穏やかで、それでいて酷く切ない。



「好きなの。…ずっと、これからも」



その鈴のような軽やかな声色に、困ったように眉根を寄せる柔らかな微笑みに、右目の旦那のことをひたすら想うその横顔に、俺は、恋をした。











あぁ一番無謀だったのはこの俺だ。


100323