家に帰って、化粧も落とさず着替えもせずにベッドに沈み込んだ。自分勝手だけどひと区切りをつけたと思ったら少しだけ涙がこぼれて、気がついたら意識は黒く塗り潰されていた。
目が覚めたのは窓の外がすっかりと暗くなってからだった。化粧を落とさなかったせいでピキピキと違和感を訴える肌をおさえて、ゆっくりと体を起こして洗面所に向かう。クレンジングオイルで化粧を落とし、顔も洗ってすっきりすれば唐突に会社を辞めたという実感が湧いて来て、少しだけまた目頭が熱くなった。サッチがいたのはもちろん、あの職場も職種もすごく好きだったし思い入れもあったから、もう働けないんだと思うとやっぱり寂しくなる。ふるふると頭を振って思考をリセットする。後悔してる暇なんてない。とりあえずしばらくは適当なバイトで食い繋いで、新しい職場を探さなくては。果たしてダメダメなわたしなんかを雇ってくれる寛大な会社が他にもあるのか、現実を直視すれば少しため息を吐きたくなったけど、それすらも飲み込んでブラウスのボタンに手を掛けた。その時、軽快な音が聞こえて、一瞬何の音かわからなかった。それがチャイムだとわかってすぐ、こんな夜に誰だろうと玄関に向かう。働いて家を空けることが多いため、チャイムの音なんて久方ぶりに聞いた。だからか、それなりのアパートに住んでいるからカメラ付きのインターフォンであることをす
っかり忘れて何も考えずに扉を開けてしまった。

「…お前は…」

無用心すぎんだろ馬鹿。扉を開けた先、珍しくリーゼントを崩したサッチが立っていた。

「な、なん…っ?!」

なんでここにサッチが、なんで家を知っているの、なんで不機嫌なの、いくつものなんでが浮かんでは消えていく。驚いて固まったままのわたしなんてお構いなしに扉に手を掛けて靴を脱いで玄関を通り過ぎていくサッチ。

「ちょ、サッチ?!」

一度も家に呼んだことないはずなのに、サッチは迷いなく廊下を突き進み、リビングのソファに腰を降ろす。

「とりあえず、座れ」

話はその後だ。口を開く暇さえ与えられずにそう宣言されてしまい、家主なのに何も言えずにサッチの向かい、机を挟んだカーペットの上に正座する。さすがにこの空気の中でサッチの隣に座る度胸はなかった。

「…辞めたんだって?」

重苦しい空気の中、口を開いたサッチの声はいつもよりずっとずっと低い。

「…うん」
「なんで」
「…ずっと、考えてたことだったから、わたし、足引っ張ってばかりだし、みんなにも、サッチにも、マルコ部長にも迷惑かけっぱなしで」

嘘ではない。それだけではないけど、嘘ではない。俯いたままぼそぼそと呟くわたしは、サッチの顔を見上げることができない。ひんやりとしたフローリングの床がじわじわと体温を奪う。タイトスカートについた歪な皺を目で追い掛ける。

「…まあお前が考えてることは大体お見通しだったけどよ、」

相談のひとつくらいしてくれてもよかったんじゃね?こっちも色々準備あるしさ

告げられた言葉は、ただでさえ出来の悪いわたしの頭を困惑させるには十分で。

「え?」

無意識のうちに首が斜めに傾く。そもそもわたしのせいでサッチが昇進できないから会社を辞めようと思ってることをサッチ本人に相談するなんてそんな馬鹿な話さすがのわたしでもしない。それにわたしが会社を辞めるにあたってサッチが準備することってなんだろう。あれか、わたしが辞めたら早速昇進するからそれの準備があるのか。地味に傷つくよ。若干口が半開きになりつつあるわたしの目の前でサッチは真顔で口を開いた。

「まずは引っ越しの準備だろ?あとは式場予約して、あ、オヤジんとこも行かねぇとな」

あとは…とぶつぶつ呟きながら左の指を次々折り曲げていくその姿に半開きだった口が全開になった。

「ちょちょちょ、ちょっと待ってサッチ」
「ン?」
「…なんの話してるの?」
「何って…これからの俺たちの話だろ?」
「………へ?」
「だってお前、寿退社のつもりで仕事辞めたんだろ?」
「………んん?」

いまだかつて、こんなにも人と話が噛み合わなかったことがあるだろうか。恐ろしいほどに意味不明な話をするサッチに、若干嫌な汗が背中を伝いはじめた。

「…誰が、どうして、寿退社するの?」
「お前が、俺と結婚するから寿退社するんだろ?」

今のわたしの心境を表すならまさしくこの一言に尽きるだろう。
ぽかん。
日本語で話されているはずなのに全くと言っていいほどサッチの言ってることの意味がわからない。これはわたしが馬鹿だからとかそういう問題ではないと思う。むしろ切実にそうではないと願う。唖然とするわたしにサッチは首を傾げて髪を掻き上げた。

「だからあれだろ?お前は自分が仕事できないって思い込んでて、これ以上まわりに迷惑掛けたくないっていう思いをきっかけに仕事辞めて俺と結婚しようとしてたんだろ?」

サッチの口調はまるで親が子に知らないひとにはついていっちゃいけないって言っただろ?と諭すようで、思わずわたしが間違っていたのかと疑ってしまうほどだった。
ぱちぱちと何度か瞬きをして、ようやく思考が半分くらい動き出す。

「…え?あれ?わたしとサッチって付き合ってないよね?」

わたしとしてはごくごく当然の疑問を述べたつもりでいたが、サッチにとってはそうでなかったらしい。初めて見るくらいサッチの眉間に皺が大量に寄った。純粋に怖い。でもサッチの常磐色の瞳が目を逸らすことは許さないとわたしを貫く。

「ンだよその冗談、面白くねェ」
「え?だって、告白とかしてないし、されてない、よね?あれ?」

低く唸るようなサッチの声に内心涙が出そうなくらいビクビクだが、それでもわたしは口を開くことをやめない。だってだって本当にサッチに告白した覚えないし、告白された覚えもないんだもん。

「してねェしされてねェよ」
「ほ、ほら!」
「だからってお前、俺のこと好きなの丸わかりだから」

サッチのあんまりな言葉にびくりと肩がはねる。たしかに、サッチのことが好きだけれど、そんな。これでも必死に隠してきたのにまさか全部お見通しだったなんて信じたくない。突きつけられた現実に顔に熱が集中するのがわかった。

「赤くなってやがんの。かーわいー」
「な!なにさ!確かにわたしはサッチが好きだよ!認めるよ!でもだからって結婚って……それじゃあまるでサッチがわたしのこと好きみたいに聞こえるからね!」
「は?何言ってんの?」

俺、お前のこと好きなんだけど

カチコチと時計の針が進む音が聞こえる。ああ、そろそろ毎週楽しみにしていたドラマが始まる時間だ。そういえば洗濯物取り込むの忘れてたな。これはまた明日干さないとシナシナになっちゃってるだろうな。
現実逃避した脳は今関係のないことばかりが浮かんでは消えて、サッチに告げられた言葉を受け入れようとはしない。そんなわたしなどお見通しなのか、サッチは徐に立ち上がるとわたしの目の前に顔を突き出して、俺、お前のこと好きなんだけど。ともう一度さっきと同じセリフを告げた。

「ダウト」
「怒るぞ?」
「だ、だって…」

サッチがわたしを好きとか、そんなのありえない。だってサッチは仕事できるしかっこいいし優しいしとにかくわたしなんかを好きになるには出来すぎた人だと思うから。よくわたしのフォローしてくれてたのだって面倒見のいいサッチがダメダメなわたしを責任感から世話してくれてるだけだと、思ってるから。
すると空気の抜けたような自嘲がサッチの口元に浮かんだ。

「…何を勘違いしてんのか知らねェけど、好きでもなんでもない奴に構うほど俺軽くないんですけど」

ちょっと傷ついたわ…、

瞳を伏せくゃりと前髪を乱して苦笑するサッチに胸がツキンと痛む。わたしの言葉が、サッチを傷つけた。自信がないなんてそんなの言い訳に過ぎない。わたしは、サッチを、サッチの想いを信じられないと言ったも同然なんだ。

「…ごめん、なさい」
「…それは何に対しての謝罪な訳?」
「サッチの、想いを疑ったこと、です」

罪悪感と負い目から自然と敬語になってしまう。スカートをぎゅうと握ってうなだれれば、はぁ、というため息が聞こえてびくりと肩がはねる。ぎゅっと強く目を瞑れば、少しだけ目頭が熱くなって涙腺が刺激された。泣いたらダメだと思えば思うほど目蓋の裏にじわじわと涙がこみ上げてきて。ふと右手を覆ったぬくもりにバッと顔を上げた。

「許してやらね、」

俺と結婚してくんないと許してやらねェ

滲んだ視界の先、わたしの両手を握ったサッチが今まで見たこともないくらいやさしげに微笑んでいて。ぶわわっと溢れた涙もそのまま、ざぁっぢぃいいいいいっとみっともない泣き声をあげてサッチのがっしりとした首に抱きついた。首筋から香るサッチのにおいに、酷く心が満たされてわたしはまたわんわんと声を上げて泣き出してしまったのでした。



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