「…苗字、変わってるのには気づいてるよね」
「…あぁ」
「…5年前のあの日、父さんの会社が倒産してね、解雇とか借金とかいろいろあって…夜逃げ、したの」

冬の始まりの日だった。はじめて最高気温が一桁になって、マフラーとか手袋とか次の日学校だからっていろいろ用意してた夜だった。
お父さんが顔面蒼白で帰って来て、事情を聞いて、それで今夜中に家を出ることになった。
本当に必要最低限の物だけ車に詰め込んで、弦一郎の家にも挨拶に行けなくて、真夜中にお父さんの実家がある広島に向かった。
お父さんの実家に着いて、どうにか住む場所も仕事も確保できて、転校手続きとか、そういう諸々のことも全部済んでしばらくは親子3人で懸命に、でもしあわせに暮らしていた。
はずだった。

「わたしが高校上がって少しした頃、ね。父さんの浮気が発覚したの」

そこからは面白いくらいの転落具合。
両親は毎晩のように怒鳴り合いの喧嘩。ときどきお父さんがお母さんを殴って、離婚が正式に決まったのはわたしが2年生になる頃だった。
わたしの親権はお母さんが持ってたから、母とふたりで小さなアパートで懸命に暮らした。わたしもなるべくバイトをして家にお金を入れて必死に生きてた。
でもある日、お母さんが壊れてしまった。過労で倒れた母は次に目を覚ましたときには重い精神病にかかっていた。わたしのことを認識できていなかった。母の実家である東京に戻ったのはよかったんだけど、母はわたしを産んだ記憶も失っていて、わたしを激しく拒絶した。
一緒に住むなんて、もうできなくなってた。
そこからはよく覚えていない。母方の祖母の知り合いが神奈川でアパートを経営していて、そこに住むよう勧められた。

『家賃はわたしが負担するから』

そう祖母に告げられ、わたしは神奈川で独り暮らしをすることになった。いくら家賃が免除されてるとはいえ、生活費は自分でどうにかしなくちゃいけないから、バイトを見つけて、引っ越して転校手続きして、本当に何が何だか考える余裕も泣く暇さえなくて、ただ我武者羅に生きて、それで今日弦一郎に会って、懐かしいし寂しいし嬉しいし悲しいし、なんかもう、訳わかんなくなっちゃって。
気付けばわたしの瞳からはぽたぽたと涙が溢れていた。
弦一郎は何も言わずに、ただわたしの話に耳を傾けてくれていた。

「ごめ…、泣くつもり、なかったんだけど、なんか、力抜けちゃって…、ごめん…」

ごしごしと手の甲で涙を拭っても、涙は止まってくれない。ただ本当に張っていた糸が緩んでしまったみたいに、涙腺まで緩んでしまって。口からはごめんしか出てこなくて。

「…もう、いい」

不意に温かなぬくもりがわたしを包んだ。滲む視界に映るのは白いシャツ。弦一郎が、わたしを抱き締めていた。

「…よく、帰って来たな」

ぽんぽんと、優しく頭を撫でられる。弦一郎の、おっきくて温かい手。その温もりに導かれるように、弦一郎の腕の中で、まるで子どものように泣きじゃくった。


120221