「はぁ…」

船縁に肘を突いてため息をひとつ。最近ここが定位置になりつつある気がする。どんな暗い気分でも海を前にすれば少し薄れるような気がして。

「はぁ…」

自然と漏れ出たため息は波の音に掻き消される。
不意にぽすんと頭に何かが乗り、視界が上半分遮られた。ちょっと驚いて横を向けば、いつものテンガロンハットを被っていないエースが黒髪をなびかせ立っていた。

「辛気臭ェにおいがすると思ったらやっぱり名前か!」
「においって…」

随分と眩しい笑顔で酷いことを言ってくれるものだ。
でも大切なテンガロンハットを被せてまで頭を撫でるように触れてくれるエースに胸がほわんとする。
嫌な方の面影はサッチに似ているが、思い出の大半を埋め尽くす温かくて優しい実兄の面影はエースに似ている、と最近気づいた。特に太陽のような笑顔と、優しい色を灯す瞳がそっくりで、胸が苦しくなってあったかくなる。

「ンだよ、まーだなんか悩んでンのか?」
「…今度は別の問題だし」

この間エースに悩みを聞いてもらった…というよりは悟られて一方的に励ましてもらったのとは違う悩みが、今名前の脳を占めていた。

船を降りるのはやめた。イゾウやマルコ、それにエースと離れるのは嫌だし、何よりオヤジとこの船に乗ったままオヤジの娘でいたかった。
それはいい。それはもう解決したことだ。問題は別にある。相変わらず蟲たちはサッチをいたくお気に入りらしく、あしげくサッチの元に通ってはちょこちょこ精力をもらっているらしいのだ。そこはもう申し訳なくて顔向けできないのだが、悩みはそこではない。そんな蟲たちを、サッチが拒否しないのだ。むしろオープンいつでもウェルカム状態らしい。同情か気遣い故かその心は知らないが、いっそのこと思い切り拒否してくれれば蟲たちを躾けるのも楽だというのに、サッチが蟲たちの好きにさせているから蟲が余計調子に乗ってサッチの元に通うのだ。責任転嫁するつもりはないが、それにしたってもう少し拒否してくれればいいのにと切実に思う。おかげで日に何度も何度もサッチの元に蟲を引き取りに行かなくてはならないのだ。
ただでさえあの一件以来顔を合わせづらいのに、毎度毎度迎えに行ってはサッチにいいように弄られしかもお菓子を渡される日々。ため息のひとつやふたつ、みっつやよっつは吐きたくなる。

「…海楼石つけりゃいんじゃね?」

グチグチと悩みを掻い摘んで話せば、エースは不思議そうにそう口にして首を傾げた。

「…着けてもいいけど、爆発するよ?」

白ひげの船に乗って間もない頃、イゾウに頼んで海楼石の手錠を着けてもらったことがある。嵌める前から妙に蟲が騒めいていることは感じていたが気にせず手錠を着けてもらったら、文字通り爆発した。海楼石を嫌った蟲たちが一斉に霧散したのだ。あの時のイゾウの顔は一生忘れないと思う。
そんなこんなでようやく名前の意識が戻る頃には半分くらいの蟲たちが戻って来ていて、残りはテンプテーションを使って地道に集めた。
懐かしい記憶に目を細めて遠くを眺めていたら、隣に立つエースがひく、と目元口元を引きつらせたのがわかった。

「痛くはねェんだよな…?」
「うん。基本的に痛覚はないから」

でもまぁ見てるほうからしたら思わず顔を引きつらせたくなるような光景だったと思う。
目の前で人間が爆発して、しかも身体の至るところが欠けていても普通に息してしゃべっているのだから。

「まー、名前が痛くないならなんでもいいけどよ!」

にかっと全力笑顔でテンガロンハット越しにわしわしと頭を撫でてくるエースにとても癒される。

「ありがとう」

ツられるように思わず笑顔で応えれば、エースは少し驚いたように目を見開き、それからさっきよりも嬉しそうに笑った。

頭に乗っかったままのテンガロンハットの首紐が潮風に揺れる。
穏やかな陽射しに穏やかな空気。このまま何事もなく一日が過ぎていけばいいのにという細やかな願いは、蟲がサッチの精力を吸っている気配の前に、虚しく塵となって海に消えた。


お迎えの時間です


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