非常にまずいことになった。

今まで蟲が誰かに懐いたことはない。
名前の意思以外で勝手な行動をすることなど、エースのような苦手な能力者が近づいたり危険が迫ったりしたとき以外はなかったというのに。
名前が熟睡しているときに蟲が勝手に移動しサッチの元へと集ったらしい。しかもサッチ曰く腕に張り付き精力を吸ったのだという。
その後とりあえずサッチを部屋から追い出し、蟲に事情聴取をしたところ、蟲たちはサッチの精力がいたく気に入ったらしく、もう一度あの精力を味わうために勝手な行動をしたのだという。
とりあえずはもう勝手に行動してほかのひとの精力を吸わないように言い聞かせたが、蟲が素直にいうことをきくかわからない。なにぶん初めてのことで、名前だってどうしたらよいのかわからないのだ。実の兄にだってそんなことしたことはなかったというのに。


「はぁ…」

船縁に寄りかかり海を見つめながらひとつため息を吐く。
サッチには今日の朝、謝罪をした。サッチは「気にすンな。あんぐらいどうってことねェし」と笑って許してくれたが、それに甘える訳にもいかない。
もしこのまま蟲が勝手な行動をし続けるなら、最悪船を降りることも考えないと。
そう考えれば考えるほどため息しか出なくなる。

「シけた面してどうしたってンだい」
「イゾウ…」

煙管から紫煙をくゆらせ、すぐ隣に海に背を向けて船縁に寄りかかるイゾウ。ふうとひとつ煙を吐き出し、促すように名前に視線を向ける。

「…蟲が、」
「ん?」
「…蟲が、勝手に動いてサッチ隊長の精力吸った」

拗ねた子どものような物言いに、自分でも眉間に皺が寄るのがわかる。
名前の言葉に驚いたように目を丸くするイゾウだったが、すぐにおかしそうにククッと喉を低く震わせた。

「そりゃあいい!奴の精力なんざどうせ有り余ってンだ。一滴残らず吸い尽くしちまえ」
「いや、そういう問題じゃないし」

くつくつと肩を揺らして笑うイゾウに思わず力なくツッコミをしてしまう。
気の置けない仲であるからこその物言いなのだろうが、名前がそれにノれる訳がない。

「…やっぱ、降りるしかないのかなぁ…」

ぽしょり、小さく呟いた声は潮風にさらわれてはくれなかったらしい。
横目に映るイゾウがあからさまに顔を歪めた。

「何巫山戯たこと言ってンだ」
「いやだって、蟲が勝手にほかのひとの精力吸うようになったらここにいられないし」
「お前は馬鹿かい」

はあ、とわざとらしく大げさなため息を吐かれ、名前はムっと口唇を尖らせてイゾウを睨んだ。

「なんでよ、正論じゃん」
「だから馬鹿だって言ってンだよ」

手に持った煙管で名前を指しながら、イゾウは船縁に肘を突いて呆れたように口を開く。

「そりゃあ普通の船だったら名前が降りンのは道理だろうよ。だがここはどこだい?天下の白ひげ海賊団、親父を父と慕う家族が乗る船だ。家族ってのは頼り頼られ、迷惑もなにもかも分け合って一緒に生きてくもンだろ?」

イゾウの言葉に、息が詰まる。たしかに、イゾウの言っていることは正論だ。
だけど家族と呼び合いクルーたちの仲が非常に良いこの船にも、名前のことを疎ましく思っている奴らがいるのもまた事実なのだ。だから、イゾウの言葉を素直に受け取ることはできない。

「…ま、名前が言いたいこともわかる。だがこの船を降りようなんて考え、誰が許しても俺が許さないよ。お前は俺の、大切な妹なンだから」
「…ん、」

優しく頭を撫でてくるイゾウに小さく頷いて応えて見せる。
嬉しいけれど、その言葉を素直に喜べるほど、名前の心の傷は浅くなかった。




なき虫な心



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