船縁に腰掛けて足をぶらぶらさせながらぼーっとしていたら甲板から声を掛けられた。

「おーい、危ねェだろ。落っこちんぞ」

振り返れば口元に手をあてたサッチがこちらを仰ぎ見ながら笑っていた。

「大丈夫です。もし落ちかけても蟲化して飛びますから」
「あァ、なるほど」

そう頷いたサッチを横目にまた海へと視線を戻す。
便利な能力だと、我ながらに思う。大体の悪魔の実の能力者は海に落ちたら為す術がない。それに比べ自分は飛んで避難すればいいのだから。海に落ちるなど、それこそ海楼石をつけられて突き落とされたりしない限りは縁のないこと。

不思議なものだ。生まれてこのかた海に入ったことがないというのは。まして今は海の上で生活しているというのに。その冷たさ、その青さを知らないだなんて。

名前は実の両親の顔を知らない。物心が着いたときにはもう悪魔の実を食べて兄と放浪生活をしていたから、名前は親というものがよくわからなかった。親父に会って初めて父親を知ったが、母親はわからないままだった。
いつだったか親父に母親はどんなものか聞いたことがあった。親父はグラグラと機嫌よさそうに笑いながら"人間みな海から生まれた海の子だ。海から生まれ海へと還る。人間ってのァそういう生きモンなんだ"と言っていた。
この広大な海が母だと言うならば、一度はその胸に抱かれたいと願うのは異常なことなのだろうか。海に嫌われ触れることすらままならないこの身で、海楼石を抱えて命の源へと還りたいと願うのは、そんなにもいけないことだろうか。
その深淵へ沈みたいと焦がれるのは、そんなにも罪なことなのだろうか。

「よっと」

海の静けさと青さに想いを馳せていれば、短く息を吐く声が聞こえ、次の瞬間にはサッチが隣に立っていた。

「いやー今日の海も最高に別賓だなァ!」

船縁に立ち海を眺めて嬉しそうにサッチが言うものだから思わず顔を上げてしまった。

「海が、別賓なんですか?」
「あ?知らねェのか?」

器用に片眉だけ上げてみせたサッチがしゃがみ込み、名前の顔を覗き込む。

「母なる海って言ってな、海は女なんだよ。人間はみんな海から生まれて海に還るンだ。だから海は俺たち全員の母親だ。そんなオンナが別賓じゃねェわけねェだろ?」

ニヤリと口角を上げるサッチは心底誇らしそうにしていてなんだか少し可愛く思えてそんな自分に戸惑った。

「…マザコンですか」
「おう。ちなみにブラコンだしシスコンだぜ?」

嫌味のつもりで言ったのに、笑顔で肯定されてしまいちょっと複雑な気分になる。
サッチの笑顔から目を逸らして海に目を向けたらわしわしと頭を撫でられた。抵抗してもどうせ流されるしなんか癪だしで眉根を寄せたまま顔を逸らしていた。

「手、出してみ」

頭に手を乗せたまま、サッチが言う。

「嫌です」
「いーから」

一回拒否したのに懲りずに促して来るサッチに、抵抗するのも馬鹿らしくなり顔を背けたまま左手を突き出した。
するとサッチの手が左手の上に乗り、そのままコロリと何かが手のひらの上に乗せられた。
サッチの顔を見ないようにしながら手の上を見れば、そこには深い青色の貝殻が乗せられていた。

「これ、昨日言ってた土産」

手のひらの上のそれは、光を受け深い青色のグラデーションを奏でる。幾重もの青を魅せるそれはまるで大海原を凝縮したような色で。

「さすがの俺でも海は持ち帰れなかったからな、小さい海見つけて来たンだ」

嬉しそうにそう語るサッチは、とろけるくらい優しい笑みを浮かべていて。

「…ありがとう、ございます」

指先でそっと貝殻を撫で、真綿で包むように慎重に握り締めた。あんなにも焦がれた海が、今手の中にある。それだけで、酷く胸が詰まって泣きそうになった。



掌の中の小さな海