事前に蟲を使って酒場や八百屋の配置、どう回るのが一番効率的かなどもチェックした一昨日の夜。サッチ隊長との買い出しは島に上陸して2日目に行うことになった。
上陸したその日の夜には数名と飲みに行ったらしいサッチは朝になっても帰って来ず、案の定娼婦を買ったのだろう。今頃どこかの娼館の2階でぐうすかと鼾でもかいてるに違いない。
別に気に障ることはない。買い出しは昼過ぎからだし、集合場所も決めてある。それまで何してたって個人の自由だが、自分が安易に船を降りて出掛けられない身であるから、島を満喫しているクルーを思うと少しイライラする。サッチのあの阿呆みたいな笑みを思い出すと特に。
朝早くに目が覚め二度寝に就くことも不可能なほど目が覚めてしまって、ふらりと早朝の甲板に出れば、朝靄が煙る中、海の潮騒の音だけが静かに響いていて少しだけ心が安らいだ。
最近は寝る前にあの男のことが頭をよぎって眠るに眠れない。どうしてあんなにも構ってくるのか、どうして不躾にひとの中に土足で入ってくるのか、どうしてあんなにも屈託のない笑みを自分に向けてくるのか訳がわからない。あの男が頭に浮かぶとどうにも不毛な考えが浮かんでは消え結局浅い眠りに落ちるだけで深い眠りには就けないのだ。
はあとひとつため息を吐けば、じじっと近くを飛んでいた蟲が慰めるように羽音を響かせた。手を伸ばせば指先に止まる蟲と戯れ気を紛らわす。
辺りは徐々に明るさを増して朝靄が幻想的に輝き出す。ああ、夜が明ける。


「お、来たか」

約束の時間の少し前に合わせて集合場所である街の中央の広場に位置する噴水まで何も考えずに向かえば、いるはずないと思っていた不本意ながら見慣れた影があって、思わず目を見開いてしまった。

「わざわざすまねェな」

そう言って苦笑する男は間違いなく自分の知るサッチであるのだが、彼が約束の時間より早くしかもひとりで待っているとは思いもしなかったのだ。
待ち合わせたことなどないが、見るからに数十分単位で遅刻しては悪びれもせずに悪ィ悪ィと片手をあげるタイプだと思っていた。
予想外の出来事に思わずサッチを凝視したまま固まれば、サッチは心配そうに顔を覗き込んでくる。

「どうした?大丈夫か?」
「は、い…大丈夫、で、す」

かろうじて出た声は少しかすれていて、そういえば丸一日くらい声を出していなかったことに気づいた。

「あんま無理すんなよ?具合悪ィならまた明日にでも…」
「いえ、約束が長引くのは嫌なので、今日済ませます」

かわいくない物言いだと、我ながら思う。ただサッチを前にすると自然とこんな嫌味じみた言葉しか出てこないのだから困ったものだ。今度こそオヤジに叱られてしまうかもしれない。
そんな杞憂を感じさせる隙もないほどサッチは朗らかに笑い、具合が悪くないならいいんだ。悪ィが夕方まで手伝ってくれ。とタバコに火をつけた。

「んじゃあ早速あっこの酒屋から行ってみるか」

マッチを振って火を消したサッチが、広場の少し先にある酒場を顎で差す。それに頷いて応えれば、サッチは名前を引き連れて歩き出す。その歩幅が妙に狭くゆっくりで、自分に合わせて歩いているのだと思うと余計むしゃくしゃした。


酒場を回り、八百屋を回り、途中サッチが店の人間と情報収集のための会話を交えたりしながら買い出しは順調に進んでいた。
名前の役目はひとつ、酒や食料に毒が仕込まれていないかを確認することである。いくらサッチが鼻が利くからといっても、人間の嗅覚では酒や食品に仕込まれた微量な薬や無味無臭の毒に気づくことはまずできない。それを名前の手持ちの鼻が利く蟲を使い判別する。
今まではどうしていたのかと問うたら勘だと答えられた。真偽のほどは置いておいても、なんとも綱渡りな解答だと思った。

「おいおいこれはちょっと高すぎやしねェか?」

今のところなんの問題もなく、サッチの後ろで欠伸を噛み殺していたとき、サッチのおかしそうな声が耳に響いた。

「何言ってんだ。ウチの島じゃあこれが普通だよ」

サッチのいる方に目を向ければ一軒の八百屋の前で店主と何やら話をしているらしい。
サッチの視線の先には軒先に並べられているこの島特産のオリーブ。値段のことでもめているらしいが、名前にはそのオリーブの相場がわからないし、ぶっちゃけモノの高い安いの基準はひとよりも判断がつかない。幼い頃から街で暮らした覚えなどほぼ皆無だし、島に上陸してお腹が空いたら蟲たちが食べられる木ノ実や果物を教えてくれてそれを食べて生きていたから、物価も相場も知らない。
でもサッチが高いというなら、そうなんだろうと思う。きっと島に上陸する度にこうして買い出しをしては大量の食品を安く入手してくるのだろうから。

「これが普通?っかしーなー…俺が昨日ここ通ったときァ、あと300ベリーは安かったはずなんだけど…たった一日でこんな値上げするもんなの?んな訳ないよなァ?はははっ!」

にこにこと至極楽しそうな表情を浮かべて八百屋の主人に問いかけるサッチ。その横顔を見てぞくりと体内の蟲がざわめいた。

「なァ、おっちゃん」

サッチの甘い声が主人を呼び、笑みが消える。

「海賊なめてっと、痛い目見るぜ?」

押し込められた殺気とも覇気ともいえない威圧感に、知らず知らずのうちに息を詰めていた。ざわりと肌が泡立ち、本能的に自分の体を抱きしめるように右腕を左腕に絡ませる。
一度だけ見たことがある、サッチのキレた姿を。家族が人質にとられ惨い仕方で殺されかけたとき聞いた、至極甘い声とゆるく釣り上がる口端。瞳だけがやけにぎらついていて、普段のサッチからは考えられないやり方で敵を殲滅した。
あのときの声音がしばらく耳の裏に張りついて消えなかった。今の声もあのときほどではないが、十分危険な甘さを孕んでいて、背筋を冷たい汗が伝った。

「待たせたな」

いつの間にか話をつけてきたらしいサッチが機嫌よさそうに紙袋を揺らしながら手をあげる。まるで何もなかったみたいな顔していつものような穏やかな笑みを浮かべる姿はよく知るサッチのもので。ふと強張っていた肩から力が抜けた。

何故だかわからないが、あの瞳が自分に向けられるのだけは、耐えられないと思った。



戦慄と、戸惑い



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