約束の日曜日。元親のバイクの後ろに乗せられてやってきたのは、まだ海開きしていない、潮風が少しだけ肌寒い海だった。

「久しぶりだなぁ、海」

カーディガンの袖をぐいぐいと引っ張って、浜辺にしゃがみこめば、元親は早速靴を脱いでジーンズもまくっている。入る気満々なのね。
昔から家族で毎年海に行くんだとにこにこ嬉しそうに言っていたから、元親は本当に海が好きなんだろう。別に海沿いに生まれた訳でもないのに、不思議なはなしだ。

「おら、オメーも入んぞ」
「え、なんで断定形?」
「あ?褒美なんだろ?だったら今日一日くれぇ俺の言うこときけや」
「何それ理不尽」

とか言いながら袖をまくって靴を脱いでるわたしも大概海好きだ。
泳ぎたいとかそういう願望はないし、特に夏に来たくなる訳でもないのだけれど、
ときどき無性に海風に吹かれて永遠に打ち付ける波を見たくなって、冬に雪が散らつく海岸沿いでぼんやりと海を眺めていたことはあった。海に浸りたいというよりも、ほんの少しだけその懐の大きさに触れて、その雄大さと刻みつけてきた膨大な時間を感じたいのだ。途方も無い昔から海は海で在り続け、その懐に幾億という命を抱えてなお時を刻み続ける。海を前にすると本当の無心に戻って何時間でも眺め続けられるのだ。だから、人気がない時期の海がすき。存分に自分のすきなように海に触れられるから。

「ひゃー、まだ冷たいね」
「だなァ。でも泳げねェほどじゃねえな」
「え、泳ぐの?」
「いや、今日はやめとく」

春夏秋冬、四季を問わず一緒に来る人も問わず海に来る元親は、今海を前に何を思っているのだろう。子どものころと違って、お互いの知らないことが増えて、見えてるものもそれぞれ変わってきた。それを寂しく思う年齢の頃にはお互い顔を見ることすらできないほど離れていて、再会したときにはもうそれが成長で当たり前だと分かり合えるほどそれぞれが自分の足で立っていたから、だからときどき、こうして物理的な距離は近くても心の距離が途方も無く遠いようなそんな感覚を覚えることがある。

「…なァ、名前」
「…ん?」

わたしは、足首より少しだけ深い所に足を浸して、元親はわたしの少し前、膝下まで海に浸って。お互い、水平線の向こうを見つめるようにこぼれた声は小さかった。

「俺はな、お前が好きだったんだ。強くて優しくて、芯が通ってて。絶対曲がったこと言わねェ。ひとの痛みを知ってる。だからやさしくなれる。そんなお前が」

元親は振り返ることなく、淡々と言葉を紡ぐ。やわらかな銀色が潮風にふわふわと揺れている。

「だけどな、どうしようもなく嫌いだった。痛みを見せないお前が。”コイビト”になれば一番近くにいられるから。だから教えてくれるんじゃねえかって、ずっと思ってた。だけどお前は結局なんも言わずにどっか行っちまった。本当に、一言も言わねェでよ」
「なあ」
「俺、まだお前のこと許してねェからな」

振り返った元親の榛色の瞳は、静かな怒りと、それから、深い哀しみを映していた。初めて聞いた本音と、初めて見たその瞳に、声が喉に張りついたみたいに口を開くことができなかった。
幼いころ手を繋いで笑い合った”コイビト”でもない。高校で再会した兄貴分でもない。幼馴染としていつだって傍にいた家族でもない。
わたしの知らない元親が、そこに居た。

「…でもな、わかってんだよ。お前が悪い訳でも、俺が悪い訳でもないってことぐらいよ。でもな、まだガキだった俺は、きっと俺が強かったら、頼りがいがあったら、男らしかったら、何かが変わってたんじゃないか。名前は頼ってくれたんじゃないかって、思った訳だ」

ふと前に向き直った元親は腕を大きく天に伸ばして仰け反る。はたはたと風にあおられてシャツの裾が踊る。顔にかかった髪の毛を払えば、少しべたついた風が頬をなぞる。

「…中学あがって2年になってから一気にガタイもよくなったからな。少し鍛えれば他のヤツなんて目じゃねえくらい喧嘩も強くなったし。見た目もイカちくなって子分みたいなやつも増えて、気付いたら不良の頭とか言われてて。慕ってもらえんのは嬉しかったし野郎どもと馬鹿やんのもすきだったからよォ、都合はよかったんだけどな」

むしろその中間地点を一切合財抜いてビフォーアフターオンリーで見せられたわたしの気持ちを少しくらい理解していただきたい。本当の本当に最初は誰だかわかんなかったんだから。

「…でもやっぱちげェんだよな。いくらガタイがよくなったって、いくら喧嘩が強くなったって、いくらアニキって慕われてたって、…いくら俺が変わったって、お前は俺に頼んねェし、弱み見せねェし」
「いや、元親には大分頼ってるし甘えてると思うんだけど…」
「ばーか。ぜんっぜん甘えてねェだろうが。お前、こっち帰って来て、俺の前で泣いたことあるかよ」
「……多分?」
「ねぇよ馬鹿」

そういうことなんだよ、と元親が呟く。最果てを眺めながら。声だけここに、置き忘れたみたいな響きで。

「…お前の"コイビト"は、俺じゃねんだよ」

水平線に太陽が接して、雲の隙間から光が放物線を描いてわたしと元親のふたりを照らす。橙というには眩しくて、黄色というには深くて、赤というには明るすぎる。柔らかなひかりが目の前で弾けて散って、死んでいく。太陽が沈んで昼が死ぬ。月が昇って夜が生まれる。そのちょうど境界線で、潮風に吹かれたまま昼と夜の狭間の歌を聞いていた。

ただ、あの赤に
ふたりで溶けたかっただけなんだ


image song by glow
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