2.「オイ、」と声を掛けられて、はじめて京子ちゃん以外に人がいたことに気が付いた。 死ぬ気といわれる状態になると直感力とともに戦闘力もあがるために人の気配には敏くなるというのにどうしたことだろう。 恐る恐る振り返った先には、見覚えのある生徒の顔があった。 隣のクラスに転入してきたイタリアからの留学生だ。 ニヤリと笑うその顔を見て居た堪れない羞恥に襲われる。 こんな格好をしているところを見られた上にひょっとしたらあの姿も見られたのだろうか。 身体に纏わり付くマントの端を握り締めると、その手を突然掴まれてぐいっと引き寄せられた。 遠目で見ても大きいとは思っていたが、想像よりもずっと高い位置にある小さな顔が目の前に降りてきた。 同じ男の癖に妙に人目を引くと思っていたが、それは外国人だからじゃなくパーツのひとつ一つがもの凄く整っているからだと初めて気付いた。 なよなよとした感じではなく迫力のあるその顔が間近に迫ってきて、どうしてか心音が煩い。 「さっきのあれはなんだ?面白い曲芸だったぞ。」 思いの外綺麗なイントネーションで話し掛けられたことよりも、やはり戦闘を見られていたことに動揺を隠し切れない。 握られた力の強さに振り解けないことを悟ったオレはそれでも顔を覚えられることだけは避けたくて、慌てて顔を横に向けた。 自分で言うのもなんだが、これといった特徴のない顔をしていると思う。少しばかり大きいかもしれない目以外はどこにでもいる普通の中学生だ。 だから目くらましである変装とマスクで充分だと思いはすれど、やはりしっかりと見られることはマズい。 とにかくオレと分かる情報を残す訳にはいかない。閉じた口をなお堅く引き結ぶと思いもよらない場所をもぞりと撫で回された。。 マントの裾から割り込んだ手が後ろの水着の端をなぞるように撫で付けて、驚いたオレは握り取られた手がビクリと震えた。 「ひ…っ!」 少し緩めのスクール水着は色々と余っていたり、緩かったりしたが選んでいる暇もなかった。 演劇部の部室にあったのはこれとヒラヒラのドレスとタキシードだけだったが、タキシードは着込む時間がなかったこととサイズがあまりに大きすぎたために着ることができなかった。 ドレスは問題外。だからといってスクール水着ならよかったのかと誤解されるのは困る。動くなら身体に纏わり付く衣装は困るというそれだけだ。 決して趣味だからではない。 男のオレが女物のスクール水着を着るなんて勿論恥ずかしかったからこそマントで隠そうとしたのだが、よくよく考えるとそれもどうかと思うような選択肢だった。 緩い水着の裾から留学生の指が今にも入ってきそうで、慌てて握られていない方の手でその手を掴む。 しかしオレの手を貼り付けたまま強引な手は後ろをまさぐる動きをやめない。 ファーストキスさえ未経験なオレはこれがどういうことなのかも分からない。 分からないながらも何だかヤバいぞと警鐘を告げる勘に急かされて逃げ出そうとするのだが、男の方がオレの動きを読んでいるせいで後手にまわっていた。 意識が尻を弄る手に集中していると、その隙をついて目の前を塞がれた。突然の息苦しさと塞がれた視界、それからぺろっと上唇をなぞられて驚いたオレが後ろに足をつくとそれを攫うように腕が背中に回されて身動きが取れなくなっていたことにやっと気付いた。 「んんっ!」 しかも言葉すらまともに出てこない。どうしたんだと口を大きく開けるとそこにぬるっと生暖かいなにかが入り込んできた。 気持ち悪い。 しかも段々と落ちていく夕日の代わりに夕闇が足元から忍び寄る。 怖さに震えていると口の中いっぱいに入り込んでいたそれがやっと出ていって、遠ざかっていく男の顔にやっと焦点が合ってから今されていたのはキスなんだと気付いた。 「な、なん!?」 咄嗟に目の前の肩を押すと思いの外簡単に男の拘束から抜け出すことができた。そのまましゃがみ込んでしまいそうな震える足をどうにか踏ん張ると、2度と捕まらないようにと後ろも振り返らずに人気のない校舎へと駆け出した。 それから人の気配が消えるまでずっと隠れていたオレが家路に着いたのは夜の9時をまわってからだった。 「随分眠そうなのな?」 と後ろの席の山本に声を掛けられて疚しいところのあるオレは慌てて手をブンブンを大きく振った。 「いや、ゲームしてたら朝だったんだ!」 「そっか。この前言ってたあれだろ?今度ツナんちに遊びに行くからやらせてくれよな!」 「う、うん。」 屈託のない爽やか野球青年の山本に嘘を吐くのは忍びないが、それでも知られる訳にはいかないのだ。 昨日はあれからあの男を撒いた後、着替えに戻った家庭科準備室で制服を着ているときに山本らしい人影が扉の前を通ったことを思い出した。 必死に息を殺してやり過ごしたが生きた心地がしなかった。 はははっ…と空笑いしながら、その斜め横の京子ちゃんをチラリと窺う。 昨日襲われそうになったせいで休むのではと心配していたのだが、いつもと同じ様子で登校してきていた。 よかったと安心するも、オレだとバレていないかそれは心配だった。 「昨日は平気だった?突然、宿題で使う教科書忘れた!って一人で駆けてくんだもの、心配したわよ!」 京子ちゃんといつも一緒にいる黒川がそう声を掛けると、京子ちゃんは少し苦笑いをして大丈夫!と答えていた。 「実はね、昨日ちょっと怖い目にあったの。でもすっごくカッコいい女の子に助けられちゃった!」 「助けられちゃった!じゃないわよ!!バカね、だから一緒についていってあげるって言ったのに!」 「うん…ごめんね。」 真剣に心配する黒川に大丈夫だからと答える。そんな京子ちゃんに少し安心した。 オレだとバレていない上に女の子だと思われたらしい。 やはりスクール水着を着て正解だった。 ほっと胸を撫で下ろしたオレはこの調子ならバレないだろと安心した途端に突然トイレに行きたくなってきた。 残り少ない休み時間に間に合わせるために急いで席を立つと、廊下の端にあるトイレまで駆け出した。 授業がはじまる前の慌しさを縫うように向かったトイレの前で、昨日の留学生とすれ違う。 思わず身体が竦み、足が止まって視線が否応なく吸い寄せられる。 ドキドキと煩い心臓は相手に聞こえやしないかと心配になるほどだった。しかし。 黒髪に黒瞳の背の高い留学生はオレに気付くことなく、また視線をこちらに向けることもなくすっと横を通り過ぎていった。 女子生徒に囲まれる留学生が遠ざかっていくと、知らず深いため息が零れた。 「よかった…」 知られてはいけないのだからバレていなくてよかった筈だ。 なのに、よかったと呟いた端からなんともいえない感情が浮かんで消えた。 続く |