4.荷物らしい荷物も碌にないから、引っ越しは賃貸契約が切れる翌月の5日に行われた。 本当は引っ越しなんて冗談じゃないと思っていたが、翌日からの管理人さんたちのいやみや中傷にか弱いオレの神経はすぐに音を上げることになったからだ。 顔を合わせないことで事態をうやむやにしてしまおうと出勤時間を早めにずらしても、それを見透かしていたかのようにわざとらしく出入り口で掃除をしていた。 まだ落ち葉が気になる程でもないというのに、だ。 時間をずらしたことにより、自分以外の住人が往来する出入り口でオレの顔を見付けた管理人の奥さんは、戦闘開始だとでもいうようにガッと眉を立てて目を見開くと聞こえる声で独り言をわめき始めた。 「まったく、信じられないわぁ…いくら男性専用の賃貸物件だからって、男が男を引っ張り込むだなんて。気持ち悪い」 朝のあいさつを会釈で交わしていた住人たちが、その声に一瞬だけ耳を傾ける。 それを見逃さずに奥さんは言葉を続けた。 「どこの誰とは言わないけどねぇ」 いかにもこの場にいる『誰か』だと言う口調に、そこに居合わせた4人ほどの住人とオレは思わず視線を巡らせる。 怖くなって奥さんの顔も見れずにその場を足早に立ち去るオレの背後から、また言葉が聞こえる。 「ふん、やっぱり本当なんだね!」 そんな訳あるか!と喉から出掛けた声を飲み込んで、いつものバス停まで歩いていくも足が震えて縺れそうになる。 小石に蹴躓きアスファルトに転がりそうになったオレの腕を取って支えてくれたのは、同じ階のオレより少し年上の住人だった。 「大丈夫?さっきのアレ、沢田さんのこと?」 「いっ、いや…!」 違うと首を振ろうとして顔を上げると、相手はいやいやそうじゃないよと苦笑いで顔を近付けてきた。 「分かってるって、沢田さんが言いがかりをつけられてることぐらい。毎度のことだからさ、あの親子」 オレ以外に聞き取れない声で話ながら、その場から離れるように歩き出した。 その背中に続くようにオレも横に並ぶ。 「…あの、いつものことって」 怖々としたり顔の相手を横目で覗くと、少しだけ自分より高い位置からため息が漏れた。 「ホントいつものことなの。君の前の住人は……なんだったかな、可燃ごみに空き缶が入ってただったかな?その前は彼女を連れ込んだとかさ。そういうくだらないことでヒステリー起こすの」 「マジですか…」 マジなんだよと返されて肩を落とす。つまり、そういう人たちが今住んで居ないということがこれからのオレの処遇を教えてくれる。 大人しくしてればいいというものでもないらしいと、ようやく悟った。 そんな訳で泣く泣く追い出されてきたオレは、ら○らく単身パックよりも少ない荷物を乗せて軽トラックを運転している。 大学時代にどうにか取得していた運転免許が活躍中だ。 ペーパードライバー一歩手前程度の腕前で荷物の載ったトラックのハンドルを切ると、ナビ代わりとして隣に座る男が窮屈そうに押し込めた足を苛立たしげに踏み鳴らす。 「おせぇぞ。エンジンがいかれてるんじゃねぇのか?」 苛々とこちらを覗き込む相手の視線に耐えながら、それでも目的地の前まで辿り着く。 追い出されたアパートから2駅分向こうの住宅街にある一軒の家。 低い塀を伝うように蔦が覆い、その奥には自分の背丈ぐらいある木々がアーチのように玄関を囲んでいた。 予想していたより少し年代の古い建物だが、それがまた雰囲気を醸し出している。 人の手が入っていることを示すように整えられている家に、しばし圧倒されていると隣の座席からドアを開ける音がした。 助手席から降りたリボーンが手を振ってトラックを誘導してくれる。 幸い人通りが少ないからオレのよたよたした運転でも迷惑にはならなそうだ。 どうにか指示通りにトラックを移動したオレは、運転席から降りるとやっとこれから住む家と対面を果たした。 「でか…っ!!」 フロントガラス越しから見たそれと、今見上げている風景との差異に頬を引き攣らせた。 確かにこれなら部屋も余っているかもと思わせる豪邸だ。 運転してきて気付いたのだが、この辺りはそういった豪邸がいくつも建てられていてここだけという訳ではないがそれにしても大きい。 ぽかんと見上げた先にある少しレトロな趣のある豪邸に顔を向けていたリボーンが、こちらに向かって声を掛ける。 「食器はいらねぇだろ、捨てるぞ。それからベッドは今運ばせるからついてきやがれ」 「え…あ、」 うむも言わさない口調に、先ほどまでの自分の拙い運転への苛立ちも垣間見えて首を竦める。 しかし運ぶといっても一体誰が?と首を傾げたところで奥から複数の足音が聞こえてきた。 「突然呼び出すなよ!レコーディング中だって言ってるだろ!?」 そう叫びながらリボーンの前に飛び出してきた顔には見覚えがあった。 紫色の髪に同じ色の唇を歪ませ、ジャラリと細い鎖をピアスで繋いでいる男は間近で見るとオレよりは背が高い。 しかし画面の向こうから見るより随分と細くて、知らず本心が唇から零れた。 「…V系ってオカマ?」 「なにぃ!?誰がオカマだ、クソガキ!」 向けられた視線の鋭さと威嚇の声にビクっと肩を震わせれば、オレの前に立っていたリボーンがこともなげに吐き捨てる。 「ああ、オカマでもいいがこいつはパシリだぞ」 「オレはパシリじゃない!」 即座に返ってくる文句に毎度のやり取りなんだろうと呆れが浮かぶ。 面白いようにリボーンの台詞に反応する彼を見て、そういうことかとため息を吐いた。 「あのさ、父さんから何を聞かされてるかは知らないけど、オレにはあの事務所を動かす権限なんて持ってないし、これからも継ぐ気はないから」 だから彼をうちの事務所に移籍させたいと言われてもムダだと続けようとして、顔を上げた。 しかし、その先でリボーンは自慢げに高い鼻を鳴らす。 「誰がそんなくだらねぇ話をするんだ?パシリがどうなろうと知ったことか。オレにはお前が誰だろうと関係ねぇぞ」 「…」 ホントかよ、とは言えずに黙ったオレを面白くなさそうに一瞥してから、リボーンは紫の髪の男とその後ろから現れた男たちに指示を出す。 「こういう時のために住ませてやってんだ。四の五の言わずに働きやがれ」 負け犬の遠吠えのごとく叫ぶ紫色の髪の男の後ろから金髪の男が一歩前に出てきた。しかしこっちの男には見覚えがない。 外国人の区別はつかないオレだけど、少なくともこんな男は記憶になかった。 紫色の髪の男より見た目は派手だが雰囲気は堅い。リボーンのように意識して人目に埋もれようとするのではなく、普段から裏方にいるような気配が垣間見える。 それにしても随分と背の高い男だ。 リボーンよりも少し高いかと見上げていれば、少しくすんだ金髪の下にある碧い瞳がかち合った。 「誰だか知らねーが、こいつへの賃貸料は滞納するな。期日通りに払っとけよ、コラ!」 「あ、ああ…うん」 当然だと頷いたオレの返事を見もしないで、金髪の男は軽い足取りでトラックの荷台へ飛び上がった。 ひょっとしたら、自分はとんでもない場所へ転がり込んできてしまったのだろうか。 2012.09.04 |