リボツナ3 | ナノ



2.




まだ一文字さえも書かれてはいない原稿用紙を前に唸るような声を上げてそこへ顔を突っ伏した。
頬に伝わる原稿用紙のつるんとした冷たさと、木の机特有のひんやりとした感触が気持ちいい。

結局は新しい編集者に押し切られ、まずは書いてみることとなった。
今まで児童文学以外を書いたことなどないオレは最初の書き出し部分から躓いていた。
しかもそこをクリアしたとてまた次の難関が待ち受けている。

「やっぱりムリ…!」

万年筆ではなく、鉛筆を握っている手をダン!と机に叩きつけるとどうにか顔を起こして後ろに転がる電話機の子機を恨めしげに眺めた。だがすぐに向き直るとまた原稿用紙と睨めっこを始める。

何かあれば電話しろと手渡された携帯電話の番号が書かれたメモ用紙。
どんな話を書けばいいのか、いつものような話ではないことだけは分かったがそれ以外のことを訊ねようとコールした電話先で出たのはいかにも情事後といった艶の増した声と真横から聞こえる女性の声。
驚いたオレは一言も発することなく受話器を置いた。

進んで書こうと思った訳ではないが、確かに金は入用だった。しかも年々先細りしていく児童書業界でこの先も喰っていけるのかと言われれば黙るしかない。
新しいジャンルへと踏み出すことに躊躇いは覚えても、分岐点がある今の内に考えるのも悪くない。
ない筈なのだが…。

リボーンという新しい担当者から言われた条件は2つ。
1つは表現を大人向けにすること。もう1つはといえば。
それを言い渡されてからここ2日ほど、まったく筆が進んでいかない。
そういった話を考えたことがないといえば嘘になる。児童書でももう少し年齢が上の女の子向けの雑誌ではよく取り上げられるからだ。
だが今回はそれとは全く違う。『大人の』というならばめでたしめでたし、で終われる訳がないのだ。

握り締めていた鉛筆を原稿用紙へと滑らせるもどうしても始まらない。
そして、その始まらない訳を思うと胃が痛くなってきた。
はぁ…と短いため息を一つ吐き出してから、そういえば布団干しがまだだったことに気付いた。
せんべい布団だからこそ小まめに干さねばならないのだ。
やっとここから抜け出せるいい訳が見つかったと腰を上げると、今度は玄関からチャイムが鳴った。

「はーい!」

誰だろう。今日はまだどこの出版社の締め切りでもない筈だ。
長い渡り廊下の端にある、書き込み式のカレンダーの丸印を確認してもまだ一週間もある。そちらはほぼ仕上がっているので、あとはもう一度見直すだけでよかったよなと頭の中で確認しながらも下駄に変えることも面倒でスリッパのまま玄関に降りて建て付けの悪い扉を横に開くと目の前に突然真っ白い箱が現れた。

「なっ、はぁ?」

眼前を覆う白に圧倒されて目を白黒させていると、上の方からくつくつと笑い声が聞こえてきた。

「よお、センセイ。少しは進んだか覗きにきたぞ。」

視界の端から現れたのは、無理難題を押し付けてきた元凶だった。









フランクな性格というにはいささか偉そうな気もしなくもないが、これもリボーンさんの個性なんだろうと思いつつ今日は書斎に通した。
書斎は玄関から渡り廊下を歩いて、居間を抜けてからオレが寝起きしている部屋を通ったその奥にある。
ここまで人を入れたことなどなかったが、まったく進まない現状を見て貰う必要を感じたオレはやけくそになりながらもどうぞと促した。

「ここは?」

「書斎だよ。」

エアコンすらないこの家ではあるが、窓を開けるだけでいい風が通る。茹だるような暑い日でもこの書斎だけはひんやりとした温度を保っていられるので、いつもこの部屋で書き物をしていた。

しかし、書斎というには少々見栄えが悪いかもしれない。いや、ある意味作家の書斎だと分かりやすいというべきか。
ぐしゃぐしゃに丸められた原稿用紙が部屋一面に広がっているそこへ足を踏み入れたリボーンさんは足元に転がっていたそれを手に取るとガサゴソと広げて中を確かめた。

「ご覧の通りまだ書き出せてもいないんだ。」

「…どうしてだ?」

「どうしてって…」

なんと答えればいいのか。
リボーンさんがオレへと突きつけた新しいジャンルへの挑戦のための条件は恋愛物である。
児童書のように頭の中で捻り出した話ならばいくらでも書ける。だけど実地に基づいた話というのは、しかも恋愛話なんて書ける訳がなかった。

生まれてこのかた一度として互いを想い合うという機会に恵まれたことはない。
一方的に想いを寄せたことならあるが、それも告白には至らず淡い気持ちのまま状況が変わっていってそれきりだった。
28にもなるというのに経験すらないのだとは告げられる筈もない。しかも電話先でのあの一件のあとでは益々言い出せなくなっていた。

押し黙ったままリボーンさんの前に座ると、何事かを考えていた彼は手にしていたケーキ屋の箱をオレに押し付けて着替えてこいと言い出した。

「な、なに?」

「とりあえず甚平はヤメロ。センセイは外の世界を知らな過ぎるんじゃねぇか?」

「そうかも、だけど…」

大学を卒業してそのまま出版業界へと足を踏み入れたオレは、この世界以外知りようもなかった。

「スーツは持ってるか?あぁ、なんでもいい。」

あれよという間に甚平を剥かれて、気が付けば以前出版社に勤めていた際に着ていたスーツを身につけていた。

「今からオレと一緒に仕事をして貰うぞ。」

「仕事?」

編集者の仕事なら経験済みだと言う前に背中を押されて家から連れ出されてしまう。玄関の鍵はかけたが火元はどうだっただろうか…なんて思いながらもあさり出版という社名が書かれたバンに乗せられて拒否する間もなく車は走りだしていった。









どこに連れていかれるのかと思いきや、テレビ局の楽屋へと足を運んだ。
途中、リボーンさんとすれ違う人のなかにスタッフと思しき人やメイクさんらしい人などが気さくに声を掛けてきていた。

「お知り合いですか?」

「前にモデルをやってたんだ。その関係でちょっとな。」

道理で行き交う人たちがこちらを興味深げに眺めていく訳だ。
だとしたらここへはその仲間に会いに来たということだろうかと思いながら、小走りでリボーンさんの後ろへと駆け寄る。すると見覚えのある名前が書かれた楽屋に何の躊躇いもなくリボーンさんはノックをした。

「ちょ、ここ有名女優さんの楽屋じゃ…」

「どうぞ!」

慌ててリボーンさんのジャケットの裾を後ろから引っ張るも、すぐに聞き覚えのある声が中から聞こえてきた。

「邪魔するぞ。」

「って!」

オレを後ろに貼り付けたまま、リボーンさんは今をときめく旬な女優の楽屋へと入り込んでしまった。
外で待っていようとドアが閉まるところでリボーンさんのジャケットから手を離すと、その手をぐいっと引っ張られて無理矢理中へと入室させられた。

「あら?そっちはどなた?」

「あ…あの…」

明るい茶髪はあくまで地毛なのだと知っている。16歳の時に家族の応募で芸能界入りしてからずっと女優として着実に歩んできた彼女の名は笹川京子といった。
デビューする前からファンだったなんていうとストーカーと勘違いされそうだがそういう訳じゃない。

「ひょっとして、ツナくん?」

「っ!覚えて?!」

中学生の頃、2年間だけ同じクラスになったことがあるだけのオレのことをよく覚えていたものだ。
弾けそうだった心臓が今度は止まってしまいそうになりながらも顔を上げるとブラウン管越しで見るよりずっと綺麗になった京子ちゃんがにっこりと笑っていた。

「変わらないね、すぐに分かったよ!」

「そうかな…そう言われると嬉しいような悲しいような。」

男としては情けないことこの上ない。
だがそのお陰で覚えていて貰えたのならファンとしては嬉しいものだ。
そんな話をしていたオレたちを興味深そうに眺めていたリボーンさんは、それなら話が早いと京子ちゃんにとんでもないことを言い出した。

「知り合いだったのか?なら丁度いいだろう。この前言っていた業界人以外の男の知り合いを増やすっていうアレな、こいつならどうだ?」

「って、えええぇぇぇええ!!?」

まさかの展開に上げた悲鳴が隣の楽屋にまで響いたと後に京子ちゃんから聞いた。

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