8.喉のひりつきにより、目を覚ました。 重い瞼を押し上げるが視界がぼやけてよく見えない。 見回しても辺りは暗く、いまが何時なのかさえ分からない。 いやに重い身体に力を入れて片肘をついて起き上がる。 途端にずきりと痛む場所に眉を顰め、ようよう事情が飲み込めた。 寝ていたベッドには自分しか居なかった。 ぐしゃぐしゃのシーツの波にひとり取り残されたようだ。 とうに失われた温もりに、また胸が軋んだ。 ベッドの近くにあるだろう灯りを手探りで探し当てると、パッと広がる灯りにやっと人心地つく。 明るくなった部屋からシャワーを浴びようとそろりそろりと足を床につける。 けれども腰に力が入らない。力を入れようとすれば奥が軋む。 どうなっているのかと下肢を恐る恐る覗く。照明に浮かび上がる肌には赤い跡が血のようにはっきりと残されていて、他人のような下肢は拭き取られていた。その赤い跡は下肢だけでなく、よく見れば腕の内側や胸元、今は見えない首筋なども同様なのだろう。偏執的な跡の付け方にため息が漏れた。 さんざん喘がされたから喉は水分を欲している。 どうにかして起き上がろうとベッドサイドに手を付けば、ミネラルウォーターが置いてあるのを見つけた。 多分、リボーンがこうなることを予想して置いていってくれたのだろう。 ありがたい筈なのに、そのマメさを苦々しく思った。 だってそれだけこういうことに慣れているということだ。 蓋を開けて一気に煽る。ようよう潤う喉。 一息つくと意を決して足を床につけ、そのまま覚束ない足取りでシャワーを浴びる。 そして着替えを済ませ手荷物を持って部屋を出た。 外に出ると一台だけいたタクシーに運よく乗り込み、自宅のアパートまで走らせる。 今帰るのはヤバいとは思う。けれども傍には居られない。 これ以上の迷惑を掛けたくはなかった。 それは矜持なのかもしれないし、ただの意地なのかもしれない。 とにかく一人になりたかった。 そこらじゅう悲鳴を上げる身体に、けれども本心は喜んでいる。 何度も求められていた最中だけは自分のものだったのだと。 なんて浅ましい。 こんな自分はあのストーカーと同じではないのか。 気持ちも告げずに欲して、騙して満たされた。 気持ち悪さに小刻みに震える身体を抱きしめて、ドアに凭れ掛かって瞼を瞑った。 自宅までの道のりが酷く長く感じられた。 夜の自宅はひっそりと静まり返っている。 秋から冬へと変わる季節に、誰もいない部屋は底冷えがした。 けれどもエアコンすらつける気がしない。 電気もつけず、カーテンを開けて月明かりで部屋を照らす。闇に慣れた目には充分明るい。 適当に置いた荷物は足元に転がっていて、自分の部屋なのにほんの数日居なかっただけで他人の部屋になったようだ。 数時間前までの行為のせいでだるい身体をベッドに転がす。 冷たいシーツが熱を持った身体によって暖められた。 身動ぎすら億劫で、そのまま目を閉じて眠りかけ… いつの間に意識が薄れていたのか、玄関からガチャリとドアが開く音が聞こえてびくりと目を覚ました。 鍵は自分が持っているだけで、他の誰にも渡してはいない。 電気もつけていない部屋に、そろりそろりと誰かが近付いてくる足音が聞こえる。 咄嗟に起き上がると、近くにあった本を投げつけた。 すると、侵入者は驚くほど素早い足取りでベッドへ近付き逃げるオレの背中を押え付けると目の前に刃物を突きつけてきた。 「動かない方がいいよ、綱吉くん。」 「!?」 見せ付けるようにベッドへと突き刺し、逃げようとした腕を捻られて後ろ手に締め上げられた。 細縄で肘から絞めると、ごろりと仰向けに転がされる。顔を見れば、やはり山本と同じ野球部員の男だった。 「君が悪いんだよ。あんな男に入れあげて。でも、やっと戻ってきてくれたんだ…嬉しいよ。」 見下ろす瞳は狂気に彩られている。口許はだらしなくにやけ、見詰める視線はオレを見ている筈なのに違うものを見ているようだ。 突き刺したナイフを抜き取ると、着ていたシャツのボタンをひとつひとつ毟り取っていかれた。 あらわにされた肌には、赤い跡が花弁のように散ってる。それを見て息を飲むといきなり形相が変わり、頬を思い切り殴られた。口の中を切ったのか血の味が広がった。 「この恥知らずが!身体中に跡を付けられて喜んでいるのか?!」 狂気の瞳で詰る様は、さながら鬼のようだ。 この男とどこが違うというのか。欲しかったから手を伸ばしただけだなんて言えるのか。 見られたくなかった罪の在りかを暴かれて、胸が苦しい。 ナイフを持ちながら、片手はオレの肌の上の跡へと指を滑らせる男。 恐怖よりも、ひりつく気持ち悪さに顔を歪めていた。 辿る指は胸の突起にまで滑り、ゆっくりと捏ねて嬲っていく。 這い上がる悪寒に首を振ると、また頬を殴られた。 手加減なく打たれたせいか、意識が朦朧とする。 口端を伝う血を舐め取る舌が気持ち悪い。 「もう誰にも触れさせないように、俺のものになるんだよ。」 ケタケタ笑う声も顔も、狂っている。 それでも一晩中貪られた身体は、この狂った男に奮われた暴力によってなお動くことができない。 身動ぎひとつ打てなくて、意識も薄ぼんやりしはじめた。 ああ、リボーンの忠告も聞かないからこんな目に遭うんだ。 そうして2度と会うことなく死んでゆくのかもしれない。 目の前にはナイフがギラついていて、それが喉元にまで近付いてきた。 どうせ死ぬなら言えばよかった。 今更後悔したとて、遅いのに。けれども。 今なら。最後ならば。 誰にも聞かれることのない言葉を口に乗せた。 「好き。大好きだった、リボーン。」 「勝手に過去形にしてんなよ、縁起でもねぇ。」 「?!」 パーン!パン、パン!! タイヤの破裂するような音が聞こえたと思ったら、目の前のナイフが消え、覆い被さっていた男もオレの上から重みごと消えていた。 ベッドの横にある窓がいつの間にか薄く開いていて、そこから夜風が部屋の中へと流れ込む。 ガラガラと窓の開く音がすると、見慣れたスーツ姿のリボーンが部屋の中に入ってきた。 土足のままベッドへと足をつくと、呆然としているオレに手を差し伸べる。 その白く大きな手。 大好きだと思った。嬉しいと、抱きつきたいとも。 けれどもそれを伝える訳にはいかない。 頭を振って動けないながらも手から離れようと肩を反らす。 この手を取ったらいけないのだ。言ってはいけない言葉が零れてしまうから。 目を閉じて頭をシーツに押し付けていると、ぐいっと腕を取られて身体が浮き上がる。 縛り上げられたままでリボーンに抱き締められた。馴染んだ腕の硬さも、匂いも何もかもが愛おしい。ぐっと胸の中心を掴まれて手放すことができないくらいには。 後頭部と背中に回った腕は強く、硬い胸板に顔をぎゅうぎゅう押し付けられて痛い。 けれどもこの痛みは生きているから得る痛みだ。 やっと戻ってこれたこの腕の中で、知らず緊張していたらしい意識がそこで途切れた。 . |