9.9. どうやってここへ辿りついたのか分からない。 店をどうしたのかも。 室内は暗くて、近くにあるソファやテーブルの輪郭さえ曖昧だ。 時間にして夜の7〜8時といったところだろうか。 呆然と座っているのは一ヶ月前に抱き合ったソファの前。 ここはリボーンのマンションで、今まで一度として渡された合鍵を使ったことはなかった。 それが、気が付けばここに居たのだ。 心配とか、動揺とか、確認とか。すべてどこかに置き忘れてしまったらしい。 ぽっかりと空いた心の空間にどうしていいのかさえ分からない。 先ほどからケータイが鳴っていて、出なければ状況も分からないというのに…手がケータイを持つことが出来ない。 一度受け取れなかったそれは、2度目3度目の受信も受け取ることは出来なかった。 外は土砂降りだったようで、雨に服が張り付いている。 歩いてここまできたのだろうか。 ぶるりと身体が震えるが、この場所から立ち上がることさえ怖くて出来ない。 身動ぎひとつで世界が変わってしまいそうで、ソファに手をかけたままの姿勢で床に座ったままだ。 ポタポタと頭から落ちる雫は、何故だか視界を悪くしていく。 室内なのに、と思っていれば自分が涙を流していることに気が付いた。 「罰が当たったのかな…。」 誰もいない部屋で、ぽつりと零れた。 待っていると言ったせいで、日本に来る羽目になって。それでこれじゃあ酷過ぎる。 ついて行けばよかったの? 待たないと言えばよかったの? 誰のせい? それはオレだ。 鍵を握る手が白くなり、その手の上に眉間を乗せて息を殺した。それでも零れてくる涙に歯を食いしばって耐える。 何時間そうしていたのだろうか、何度もなる着信音に何度手を伸ばしたのか。 それでも、ずっと待っているリボーン専用の着信音は鳴らず、伸ばしては引っ込めることを繰り返していた。 ざあざあと土砂降りの雨は、雷雲も連れてきたようだ。 灯りのついていない部屋に、雷の音が響き、光が家具の輪郭を照らす。 着信音は止み、部屋に響く雷の音が煩くて音を拾うことが出来ない。 突然、玄関の方向から荷物を乱暴に置く音が聞こえたような気がした。 ただの空耳なのか、違うのか。 すぐに動きたいのに、足が根を張ったようで動けない。 廊下から気配がして、居間のドアをじっと見詰めていれば暗い中でもはっきりと見えた。 ツナと同じように濡れ鼠になりながら、足早に近付いてくる人影にやっと根を張った足の呪いも解けたようだ。 両手を広げて抱きつけば、骨も折れんばかりに抱き返された。 「おかえり、リボーン。」 「ただいまだぞ。」 濡れて張り付いたシャツ越しの体温を感じて、やっと戻って来たことを実感できた。 額に張り付いている髪を掻き上げてやり、少し背伸びをし両手で抱えてキスをする。 それでもこのままでは風邪をひかせてしまうので、腕の中から離れてタオルを取りに行こうとすれば、もう一度腕を取られて逆戻りした。少し抵抗したが、暖かくて広い胸はずっと待っていたもので、そこから出ることを早々に諦めた。 後ろから抱えられて床に座ると、後ろから声が掛かる。 「どうしてビアンキからの電話を取らなかった?」 「…だって、もしどうかなったなんて電話だったら聞きたくなかったんだ。って、言うか。リボーンからの着信は待ってたんだよ!どうしてくれなかったんだ!」 仰け反って振り返ると、懐から出したケータイの無残な姿が。 「!?なんでっ。」 はっとして、身体ごと振り返るとリボーンの身体を上から下まで手で確かめる。 特に怪我はしていない様子に、ほっと一息つくとクツクツと上から笑いが零れてきた。 「怪我はしてねぇぞ。あの便には乗らなかったからな。」 「え…?」 「搭乗手続きの前にこいつをスられそうになってな…こいつにはお前の寝顔からいい顔までデータが入っていたから、ちっとそいつをボコっていたら乗り遅れたんだぞ。ケータイはその時に壊れちまったが、データは残っているからよかった。」 にやりと笑う顔を見て、こっちこそボコってやりたくなる。でも、そいつのお陰でこうして無事だったんなら、スリも人助けをしたことになる。ちょっとだけ感謝だ。 「胴体着陸した機体の回収とかで中々着陸出来なくてこんな時間になっちまったんだぞ。それをビアンキのケータイから電話してんのに、出ねぇから…。」 「ごめん。」 項垂れていれば、頭をぽんぽんと叩かれる。そのまま頭をリボーンの肩に凭れかけて、手は背中に回す。 ひとつ息を吐くと、先ほどまで考えていたことを言ってみた。 「写真撮りに行ってるときにはついていけないけど、それ以外はついてくよ。イタリアでも、どこでも。こんな風に待つのはもう嫌だ。」 「ツナ…。」 背中に回した手を外し、きちんと目を見て告げた。 「オレを連れてって。」 「言ったな…死ぬまで一緒だぞ。」 「それもいいね。」 いつものちょっと皮肉げな笑いになりきれない顔で言われ、同じように返す。 どちらからともなく重なる唇に、互いの熱がどんどん上がっていく。 その内、どうなったのか気が付けば隔てる布も取り払われ、相手の体温と自分の熱さの区別もなくなって。 電気も点けないまま床の上で抱き合っていた。 白み始めた朝焼けに、ふと目をやれば、同じようにツナの肩に顎を乗せたリボーンもそれを目で追っていた。 いつの間にか雨は止んで、雀の鳴き声と共に雨が上がった後の少し冷たい空気に気が付いた。 「寒いね。風呂入れてこようか?」 「一緒に入るんならな。」 「もー…。」 するりと腕から抜け出して、手近にあったシャツだけ羽織ってバスタブに湯を張る。 身動ぎする度に自分からリボーンの匂いがして、まだ火照っている身体は他人のようにそこかしこが痛む。 大体、床の上で一晩中って…と我に返ると赤面ものだ。 溜っていく湯に視線を落としながら、お湯と一緒に満たされていく気持ちに笑みが零れた。 すると後ろからカシャンと音が聞こえて、慌てて振り返ればカメラ片手のリボーンが。 「ちょっと!オレシャツしか着てないんだから、やめろよ!」 真っ赤になって頬を膨らませて言うと、その顔すら撮られた。 「リボーン!」 「いいだろ、別に誰かに見せやしねぇし。現像もオレがやるんだから、見られる心配もねぇぞ。」 「そういう訳じゃないって!」 「人物写真は好きじゃなかったんだが、お前を見てると撮りたくなった。今度からは人物も撮ってみるか。」 膨らんでいた頬が戻り、ちらりと心配そうに眉を潜めるツナにリボーンがどうした?と訊ねる。 「だって…女の人相手に撮ったら、浮気しない?」 「…お前、人物写真はヌードしかねぇと思ってんじゃないだろうな?」 「え!違うの?!」 真剣に驚くツナにこめかみを揉む。頭が痛い。 「そんな訳あるか。大体、ツナ以外のヌードは撮らねーから安心しとけ。」 先ほど撮られたことを思い出して、ボン、と赤くなる。 「ネガごと返してね!」 「嫌だぞ。こいつはオレの恋人が生涯の伴侶になった日の記念の写真だからな。返して欲しけりゃ傍にいろよ。」 恥ずかしい言葉に益々赤くなって、顔どころか全身にまで熱が広がりくらくらする。 口をぱくぱくさせていれば、頬にちゅっと口を寄せてきた。 「よろしくお願いね。」 「任せとけ。」 こうして、イタリア人写真家は日本の綺麗な喫茶店マスターを手に入れることができました。 その後しばらくは、日本に滞在してあちらの山、こちらの風景と、カメラ片手に日本を旅して回ったとか。 勿論、帰ってくる場所は小さな喫茶店の綺麗なマスターのところだということで。 終わり |