7.可愛い少女の秋波を振り切ってバールから出ると丁度のタイミングでビアンキが現れた。 バールへは一人でゆっくりしたいことをよく知るビアンキはオレが出てくることを待っていたに違いない。 10年かけてオレの呪いが解けたように、ビアンキは以前の禍々しさがなりを潜め随分とイイ女へと成長していた。 以前と変わらぬ長いストレートヘアにすらりとした肢体は街行く男どもを振り返させるに足る存在となっている。 きちんと引かれたルージュの赤い色も、夢見るようにうっとりとオレを見上げる瞳にも心動かされることはやはりない。 あの色の瞳にしか反応しない鼓動はどこまでも正直だったという訳だ。 自分すら預かり知らぬところで育っていたらしいそれに気付いたばかりのオレはフッと口端だけの笑みを浮かべていた。 それを見たビアンキがどうしたの?と問いかける。 「いいや、なんでもねぇぞ。ただお前や他の愛人たちから貰う訳にはいかねぇと思ってな。」 「どういうこと…?」 「悪ぃがそういうことだ。」 どんな美女にも靡かない代わりに、拒絶することも追いかけることもなかったオレの突然の言葉を聞いて驚きに足を止めたビアンキを置いてそのままボンゴレへと歩きだした。 ただ会いたかった。 この青空のように誰にでも懐を広げ、誰のものにもならない大空の変わらぬ間抜け面を見たかった。 久しぶりとなるボンゴレ本部は主の不在を示すように慌しさをみせていた。 それでも厳戒態勢を敷き、浮き足立つ構成員たちの尻を叩いて諌める獄寺の手腕は以前とは違い遥かに手馴れたものになっている。 それだけかのボンゴレの主は幾度もここを抜け出しているのだろう。 だとすれば、我が生徒でもあるあのボンクラはこの騒動を知っている筈で、いくらオレが叩き込んでやってもどこか庶民臭さの抜けないあいつはきっとすぐに戻ってくるに違いない。 ひょっとすればもう戻ってきているのではないのか。 そこまで考えて、ひょっとすればどころかかなりの確立で既に帰ってきているのだろうと確信した。 獄寺に声を掛け主不在の私室で本人を待つことにすると言うと緑色の瞳を暗くさせて一瞬だけこちらを睨みつけてきた。 私室への勝手な出入りを許可されているのはオレくらいで、それ以外は本人の許可なく立ち入ることを禁じられているためだ。 大空らしく誰からも想いを捧げられているあいつは、あんな昼行灯であっても一応の警戒心くらいは持ち合わせているらしい。 それすら自分のためでなく、相手の獄寺や山本といったツナの大空の魅力の虜になった者たちが道を踏み外さないためにという程度だ。 ヤツらが本気になればどうとでもなる囲いでも、ツナが本気で嫌がれば手も足も出ないということを本能的に知っているのだろう。 緩い囲いにしているのは締め付け過ぎてはいけないことを理解しているからだ。しかしオレにはその囲いすらないのだと今更気が付いた。 それは警戒しなくてもいい存在だと認識しているということで、裏を返せばオレはあくまで家族の一員であったり、師であったり、フリーのヒットマンであったりというツナにとってはそれ以上に成り得ない存在だということに他ならない。 自覚したばかりの気持ちに色を付けることはできないが、それでも最初から範疇外と言われているのは癪に障る。 ならばその警戒心のないところを利用しようと腹を決めた。 飛び越える垣根もないのならば攫ってしまえばいい。 ニヤリと零れた笑い顔をたまたま見たらしい構成員が野太い悲鳴を上げて逃げ出した。その背中を見守って、ツナの私室に人気がないことを確認してからノックの後、ドアノブへと手を掛けて中へと足を踏み入れた。 「やっぱり戻ってきていやがったか…獄寺に一言ぐらい入れとけ。」 「んー…んん。」 10年前と根本は変わらなかったこの部屋の主は、モノグサな性格も相変わらずで煩雑に物が置かれている。 そのひとつであるトランクスが扉の横に投げ捨てられていた。 どんな格好で普段過ごしているのかと問いたくなりながらも足を奥のソファのある部屋へと進めると、やはり予想通りにツナが居た。 どこかぼんやりと宙を見詰める瞳は吸い込まれそうな引力を持って、オレの視線を釘付けにする。 シャツだけをはおった姿は目に毒で、剥き出しの白い腿とムダ毛の見えない脛へと流れる足の線は同じ男なのかと確かめたくなるほどに色気を振り撒いていた。 眉間に皺を寄せ、何かに苦悩するように苦い笑いを刷いた面は小さな箱に視線を落とす。 チョコレートと思しきその箱を無造作に開けると、ひとつ摘み上げて口の中へと押し込めていた。 日本と違いイタリアでは女性だけがバレンタインを楽しむという訳ではない。 むしろ男から愛しい人へと愛を捧げる習慣がある。 だからこそ、それを隠れ蓑に守護者たちはこの大空へと大手を奮って想いを伝えているほどだ。 そこかしこに飾られた花々は獄寺、山本のみならず他の守護者や暗殺部隊、兄弟子や同盟ファミリーの仲間からのそれに違いない。 それを振り返ることなく手の中の小さな箱を大事に抱えるツナは誰を想っているというのか。 それを覆い隠すようにふにゃりと笑み崩れたツナを見詰めていると、すぐに視線は逸れていきその眉がまた寄る。 見ればツナが自分用に購入するには黒すぎる色のビターチョコが転がっていた。 内心の腹立たしさを隠して近付くと聞くまでもないことをつい訊ねた。 「美味くねぇのか?誰からのチョコレートなんだ…」 そう問うた瞬間のひどく傷付いた顔に腹の中で何かがグツグツと煮え滾った。 オレではない誰かを想っての表情に先ほど知ったばかりのそれが変質していく気がした。 淀んだそれは今まで感じたことのない独占欲に他ならず、そんな自分を止める術を持たなかった。 自分で買ったものだと嗤う顔を見ていることが出来ず、もう一粒つまもうとする指から小箱を取り上げると大きな瞳は一層大きく見開いてこちらを見上げてきた。 揺れる瞳の奥にある諦めを見つけて暗い愉悦を噛み締めた。 「なに…」 「いらねぇんなら貰ってくぞ。」 「は?」 と震える声を無視して箱に蓋をすると手の平の上で握り締める。 いっそ握りつぶしてやろうかとも思ったがそれも大人気ないだろう。 ぼんやりとオレの手を見詰めるツナの表情からは純粋な驚きしかみられない。 ツナから香るチョコレートは自分のために選んだとは到底思えないようなビターで少しスパイスの効いた匂いがする。 チョコレートは日本製のものがいいと言い張るこいつに誰かが趣味の合わない物を渡したとも考え難い。 甘い物が苦手だろう誰かに渡せずに、または受け取られずにここにあるのだと推察できた。 シャツの下に何も履いていないのかかなり際どい部分まで肌が露出している姿に、そこまでして誰に迫ったのかと業を煮やしながら横を向いた。 「それからな。獄寺呼ぶんなら下は履いとけよ?」 「…した?」 オレに言われてやっと気付いたツナが耳まで赤くしながら慌ててシャツで下肢を押さえ込んだ。 「ご、ごめん!変なもん見せて!パンツ履き忘れてた。」 お前は一体誰のことを想っていたのかと吊し上げそうになった自分に舌打ちしながら、そんな顔を見せる訳にもいかずに後ろを向いた。 そんな過ぎてしまったことはどうでもいい。 今はまずこの手の中にあるこれをどう上手に使うかだ。 こちらでは馴染みの薄いというよりない風習だが、沢田家では毎年あった今日と対になる日のことを思い出した。 「っ!いいか、ツナ。こいつは貰ってくぞ。それから3月の14日は何が何でも時間を空けろ。いいな?」 「へ?それは隼人に聞かないと…」 意味も分からない癖に逃げ腰になっているツナにもう一度言い渡す。 「いいな?!」 有無も言わせない勢いで絶対だぞと念を押すとう、うん…と小声で返ってきた。 強引ながらも約束を取り付けたオレは、長居は無用だと知っている。 やはりその日はダメだなんて言われないようにとわざと肩をいからせたまま靴音を響かせて部屋から飛び出した。 マナーモードにしてある携帯電話は、先ほどからひっきりなしに低い振動を伝えてきている。 ビアンキから他の愛人にでも伝わったのだろうが、今はそれに出る気持ちにならなず電源を切った。 . |