4.この世で最も有名な聖女といえばイエス・キリストを処女のまま産んだという聖母マリアだろう。けれど聖女というのはなにも神の子を産む人だけがなるものではない。 神の声を聞き、それを人々に伝えることが出来るとも言われている。けれどそれも清らかな身でいるときだけのこと。穢れてしまえばただの人になるのだと母さんは笑って言った。 「つまり父さんと結婚してオレを産んだから聖女じゃなくなったってこと?」 「厳密にいうと違うわよ。でも、それが一番分かりやすいかしら…」 と小さく苦笑いを浮かべる母さんの顔を見詰めていると、膝を折って顔を上げない男にそっと近付いて手を頭の上に翳した。 「頭に怪我を負ったことがあるわね?」 その言葉を呟いた瞬間、ふわりと母さんの手元から光が溢れ男の頭が光で覆われた。 見たこともない光景に驚いて言葉も出ない。 ただ唖然としてそれを眺めていると、男は一度深くお辞儀をしてから声を出した。 「聖女の奇跡はまだ健在なのですね。」 「昔ほどではないけれど、少しだけならね。」 悪戯っ子のようにふふふっと笑う母さんの顔をようやく男は振り仰いだ。 「神に感謝します。」 「あなたに神のご加護があらんことを。」 その時の母さんの顔は神々しいまでに輝いて見えた。 というのに。 くるりとこちらを振り返った母さんはいつもの母さんのままで、それに少しだけホッとした。 マザコンというなかれ、オレにとっては聖女でもなければ神の御使いでもない。オレの母さん、沢田奈々なのだから。 オレを振り返った母さんは腰に手を当てるとわざと怖い顔を作ってオレを睨む真似をした。 「もう、ツナったらいくらなんでも早すぎよ。私とあの人の結界を破るなんて誰としてきたの!」 「だれとって…」 何の話だろうと巡らせかけてふっと気が付いた。誰かがオレを物の怪から守るために術を掛けていたと言っていた男の言葉を。 驚いて男に視線をやると悪びれなく男は頷いていた。納得しているようだ。 誰かとそういう行為をしてきたことが母さんにバレたのだと思うだけで恥ずかしさで死にそうになる。 しかも相手はそこにいるのだ。 カッと火がついたように熱くなった頬を隠そうと手で顔を覆っていると、玄関が勢いよく開かれた。 「奈々っ!ツナがどこの馬の骨とも知れない女に食われたって!!?」 ハンターの仕事で年に数度家に帰ってくればいい方の父さんが血相を変えて飛び込んできた。 取るものも取らずに帰ってきたのか、汗まみれの上に物の怪に引き裂かれたままの衣服は酷い有様だ。 そんな父さんに驚いていると、母さんはそうなのよと嬉しそうに頬を染めていた。何で?いや、いつの間に父さんに連絡を取っていたのだ。 よく分からないが物の怪からオレを守っていたそれがこの男によって壊されてからまだ2日と経っていない。 どうやって説明しようかと悩んでいると、母さんの前から立ち上がってこちらを楽しげに眺めていた男に父さんが気が付いた。 「って、リボーン?!おま、死んだんじゃなかったのか?」 「誰が死ぬか。」 父さんと男はどうやら知り合いらしい。ハンター同士なのだから当たり前かと納得していると、いきなり男がオレの肩を引き寄せた。 「悪いな、家光。ツナがこうなっちまった責任は取るぞ。」 「んなっ!」 「まあ…!」 「なにぃ!」 責任を取るということイコールオレの術を解いた本人ということだ。突然バラされて動揺するオレを尻目に、男はオレの顎を掴むと頬に口を寄せてきた。冗談ではない。あの時は黒豹だから怖くていいなりというかされるがままだったが、今は違う。男となんてごめんだと精一杯手で押し返す。 「ちょ、あんた自分勝手だな!オレが白蘭のターゲットだって分かった途端にこれかよ!ろくでなし!ごうか…ふぐぐっ!!」 「出会ってから日は浅いが恋に時間なんて関係ないだろう。」 オレの口を塞いでいけしゃあしゃあとそんなことを言う男に、父さんは胡乱げな瞳を向け、母さんは嬉しそうに微笑んでいた。 母さんはともかく、父さんの視線は信用できないと語っている。 つまり昔からそういう男なのだろう。恋多きというか、爛れているというか、少なくとも息子を任せられないと思うくらいには酷かったのかもしれない。 そもそもこいつの目的は知れていた。 自分の呪いを解くべく白蘭を狙っているのだ、その白蘭がオレを狙っているのだからオレを見張っていれば現れると考えているのだろう。理由は分かるし心情的にも同情の余地はあると思うのだが、最初が最初だ。どうにも信頼はできない。 口を塞がれたままで男を睨みつけていると、それに気付いた男が切れ長の瞳をわずかに緩ませた。微笑にも満たないそれは元が整いすぎて冷たい印象を与えるためかひどく胸に突き刺さった。 ぎゅっと掴まれたみたいに不規則な動きをする心臓に自分で驚いていると、オレと男の間に割り込むように父さんが空咳を響かせた。 「ゴホン。それはともかく、ツナを守っていた術が解かれてしまうと困ったことになるんだ。分かるな、リボーン。」 「ああ、分かるぞ。ツナは聖女の血を色濃く持って生まれている。普通なら精通すれば聖なる印が消えてしまうというのに、男に生まれたばかりにそれが消えずに体内に残ったままでいる…という訳か?」 「その通りだ。だがな、ツナは奈々の血だけでなくオレの…ハンターの血も受け継いでいるんだ。」 「というと、ボンゴレの…」 「そうだ。しかしいまだ力は顕在化していない。それがどういうことか分かるか。」 さっぱり意味が分からないオレだけ置いてきぼりのまま父さんと男は黙り込んでしまった。 その沈黙をどう受け止めるべきなのかオレは知らなかった。 ハンターというのは家系なのだ。 その昔、物の怪と人間が交わって人間の姿に物の怪の力を蓄えた子供が生まれた。それがハンターのはじまりとされている。人ならざるモノを倒すにはやはり人ではない力が必要という訳だ。 物の怪と違い人であるハンターは、けれど普通の人間とは違うためにハンター以外の職につくことはできない。 そんな父さんと聖女であったらしい母さんはどうやって出会い、恋に落ちたのだろうか。 思わず両親のロマンスに思いを馳せていると男の長いため息が聞こえてきた。 「分かったぞ。それも込みでオレが責任を取ってやる。オイ、ツナ!」 「なんだよ…」 突然オレに声を掛けてきた男に顔を向けると、男はそれはいい顔でニヤリと笑った。 「これからオレのことを先生って呼べよ?」 「は?」 「あなたでもいいぞ。」 「んなっ!?」 呆れてものも言えず声を詰らせていると、男の横で父さんが顔を赤くして怒り出した。 「許さんっ!許さんぞ!ツナの専属教師になることは許すがそれ以外の接触は絶対にゆるさ…」 途中で途切れたのは母さんが父さんの口を塞いだからだ。 困った人ねと父さんを押えた母さんはすべてを許す微笑みでオレと男に交互に目配せをした。 「ツナのことはリボーンくん…あなたに任せます。ツナはまず自分が何者であるのかを知りなさい。でもあなたは私と家光さんの大事な息子よ。それだけは忘れないで。あなたのことを大切に思っている人がいることは覚えていてね。」 「う、うん…」 重い言葉だったのだと気付いたのはもっと後になってからだったが、それでも母さんのオレを思う心だけははっきりと伝わってきた。 頑張らなきゃ、いいハンターにならなきゃ…と考えて違和感を覚えた。 「…オレが、ハンター?」 そこだった。 ハンターというのは運動神経、反射神経、それから物の怪を捕縛したり滅したりするときに使う術など色々と普通の人間より優れているところが多い。 だけどオレは自分で言うのもなんだが普通の人間より鈍臭い。しかも特殊な力など持っていないのだ。 「ならなきゃ白蘭の餌だぞ。なっても餌かもしれねぇけどな。」 「嫌なこと言うなよ!じゃない。オレ、運動神経ないよ?父さんみたいな力もない…なのにハンターなんてムリだろ!?」 「ムリじゃねぇぞ。今までは力の発動を制限されていただけで、元々の資質でいえばツナは家光以上だ。」 試してみるかと声を掛けてきた男が突然暗い闇に覆われて、何が起こるのかと見詰めていると、その闇の中から森で出会ったあの黒豹がゆっくりと這い出てきた。 これが呪いなのかとマジマジと眺めていると、その視線の先で黒豹はハッハッハッと浅い息を繰り返しながらオレに近付いてきた。 怖いと思った。 頭の中ではこれはあの男なのだと分かっていても、突然襲われて有無も言わさず犯されたという事実を身体が覚えている。 黒豹姿に変えられたせいで理性が弱くなるのか、それともこれが地なのか、ともかくピリピリするような雰囲気でこちらに近寄る黒豹の気配に押されて足が後ろにさがった。 ぐるぐるるぅ…と低い唸り声をあげる黒豹から逃げたくてずりずりと後ろにさがっていると、ドンと背中に壁がぶつかった。 これ以上さがれないと気が付いて内心焦っていると、それを見た黒豹が突然オレ目掛けて飛びついてきた。 「いやだ…っ!」 しゃがみこみ頭を抱えて襲い掛かる黒豹から逃れようと必死で身を縮めたその時、身体の内側から突然炎があふれ出た。ゴウと音を立てて立ち上るそれを身体の奥で感じる。 オレの炎に弾かれた黒豹が床にトンと落ちると頭の中に男の声が直接響いてきた。 『それがボンゴレに代々伝わる炎だ。物の怪にだけ効力がある。』 「これが…」 身体から轟々と立ち上る炎は綺麗なオレンジだった。 それを見ていた父さんも母さんも驚いてはいない。それはオレがこの力を持っていることを知っていたということだ。 『聖女の体質とハンターの力…うまく使えればこれほど強力なハンターはいねぇぞ。代わりに、ハンターの力が中途半端だとただの物の怪ホイホイになるがな。』 「なっ!?」 『とりあえず、』 気が付けば黒豹が足元まで近付いてきていた。 大きな黒豹は艶やかな毛並みをオレの腹に擦り付けるとベロンと頬を一舐めした。 「ひぃぃい!」 『オレにキスをしろ。舌が絡み合うようなねっちょりしたヤツだぞ。』 「出来るかっ!って、ううっ…ん!」 壁を背にしゃがみ込んでいたオレの肩に前足を押し付けると、そのまま伸し掛かられて黒豹に唇を奪われた。暖かいというより熱い舌が口腔をなぞっていき逃げるオレの舌を絡め取っていった。 しっかりたっぷり5分は貪られ、ぐったりと床の上に転がっていると黒豹が光に包まれて人型へと姿を変えた。 「フン、やっぱりな。思った通りだぞ、ツナ。元々ハンターであるオレは物の怪に近い存在だ。だから黒豹姿になると女に陰の気を吐き出さねぇと戻れなかったんだが、おまえは聖女の体質を持っているせいでその陰の気を触れることで吸い取る力があるんだ。だが聖女奈々ほど力が安定していない。だから触れるというより絡め合わせなければ浄化できねぇんだろうな。」 だからといってどこの世界に親の目の前でディープキスを獣としなければならないのか。 力なくぐったりと横たわるオレの上で講釈を垂れている自称先生は黒豹から元に戻ると真っ裸になるらしい。 一度ならずも二度までも黒豹にキスを奪われてしまった上に男に伸し掛かられているオレって前世になにか悪い行いでもしたのだろうか。 オレの上から退く気はないらしい男の背中の向こうから父さんの怒鳴り声が聞こえてくる。 「コラーッ!!ツナから離れろーーー!」 「あらまぁ…熱烈ね。」 その横からは母さんの惚けた感想が。 否定したいところだが、とりあえずこれだけは言いたかった。 「早く上から退いてよ…」 「悪いな、居心地がよくてつい。」 やっぱり一番の問題は白蘭さんじゃなくて、この黒豹男だと思う。 . |