プロローグゆっくりと白み始めた空を見上げていると吐き出した息が白くなっていたことに気が付いた。 もう冬は足元までやってきているのだろう。 忍び寄る寒さにこれ以上体温を奪われないようにと襟元を手で絞め、それからまた歩き始める。 行き交う人は犬を連れた近所のおじさんや、早朝練習に勤しむ中高生くらいだ。 その人たちと挨拶を交わした綱吉はいつものバス停に辿り着くとぼんやりとバスがくるのを待っていた。 朝の6時前だが綱吉の職場は夜勤もあったり、今日のように早朝からの勤務もある。 先ほど挨拶を交わした高校生と大差ない童顔ではあるが、それでも今年で23歳になった。 そのどこから見ても高校生にしか見えない顔を寒さに歪めながら身体を竦めていると、後ろから声が掛かる。 「君、可愛いな…本当に可愛い…」 綱吉よりわずかに年嵩だろうと思われる男が焦点の合わない視線で綱吉の全身を眺めながらそう呟いていた。 返事のしようもなく、また返事をかえせばどうなるのか身を持って知っている綱吉は気味の悪い視線から逃げるように一歩前に踏み出すと携帯電話を取り出して時間の確認と警察へのコールをすぐに押せるようにと手に握った。 それすらどうでもいいのか、薄ぼんやりした表情の男は少しずつ綱吉に近寄ってくる。 まだ夜も明けきっていない明朝の上に今は人通りがない。 いつもなら少しは通る道なのにと焦る気持ちのまま視線を彷徨わせていると、いきなり手を掴まれた。 「やっぱり…遠くから見ても美味しそうだったが、近くだともっといい。食べたいな。食べてしまおう…」 「ひっ…!」 男なのに男にストーカー慣れしている綱吉だったが、この男は何かが違う。強いていうなら「美味しそう」の言葉に真実味があるような気がするくらいだ。 ハァハァと吐き出される息は妙に獣臭くて、手を掴む力は人のそれとは思えないほど強い。 振り解けない腕に焦っているとぐるるぅう…と獣が喉を鳴らす音が聞こえ、目の前の男が一回り膨らんでいた。 アニメやゲームで出てくる半獣半人のキャラクターのように口が耳がそして気配が獣へと変貌を遂げる。 逃げ出すことも出来ずに目を見開いてそれを眺めていれば、目の前のバケモノが口端から涎を垂らしながら近付いてきた。 「オレはついている。こんなに美味そうな人間を食べられるなんて…これで100年は持つだろうな。」 意味も分からない言葉に反応できる訳もなく、ぐわっと広げた口が頭から齧り付こうとしている様をただ恐怖で目を閉じることもできずに見続けていた。 すると。 道の角から黒い影が目の端に入り、それがあっという間にバケモノの背後に近付くと何かを取り出し撃ち付けた。パシュンと一発音が響くと綱吉の手を握っていた手が解け、バケモノがもんどりうって地面へと激突する。 のた打ち回る様を呆然と眺めていると、バケモノに片足を乗せて手にしていた銃を懐にしまっている男に気が付いた。 「あの…」 それに続く言葉を綱吉は見つけられなかった。 ありがとうと言えばいいのか、それともこの状況を知りたいのか、それすらも分からない。 ただ目の前の黒尽くめの男に視線が釘付けになっていた。 「…夜と朝の境目は色々なモノが闊歩する。お前のような稀有な血を持つものは努々(ゆめゆめ)気をつけることだ。喰われてしまわないように、な…」 綱吉より頭一つ分高い位置にある顔がゆっくりと振り返り、ニタリと微笑みかけた。白い面に黒い髪、宝石のように妖しく光る黒い瞳に意識が奪われる。 笑みを含んだその口許がニィと口角を上げていき、男の白く長い指が綱吉の顎をつまみ上げた。 「あぁ…成る程、コレは確かに美味そうだな。」 どこか人形めいて見える美貌を淫猥に歪ませてペロリと舌なめずりする顔に、綱吉は悪寒とは違う何かを肌で感じた。 触れられた顎の先から滲むように侵食していくそれに身動きが取れなくなる。 ついっと顔を寄せられても声も出せなかった。 顎から流れるように手を項へと滑らせ、そのまま男の唇が指の先を辿る。確かめるように唇が肌の上をなぞる度にビクンと身体が揺れた。 手で押し退けることも、足を踏み出すことも出来ない。けれど不思議と怖さは感じず、ただ耐えるように目を閉じるだけだ。 男の唇が何かを探り当てたのか、そこを丹念に舐め取っていく。 舌を這わせる度に下肢に覚えのある感覚が湧き上がって綱吉はうろたえた。 その時、やっと角の奥から光が映し出た。少し遅れたが綱吉の乗るバスのライトだろう。 それと分かった瞬間には男も、バケモノも姿を消していた。 気配すらない。 残されたのは綱吉の耳元でドクンドクンと脈打つ血の流れる音だけだった。 . |