2.保健室で着替えを済ませていると、ガラリと勢いよく扉が開く音が聞こえてきた。 職務放棄をしていた不良保険医が帰ってきたのかと思っていれば、どうやらそうではないらしい。 聞き覚えのある声が聞こえてきたからカーテンの隙間から顔を出した。すると、 「あ、何よ沢田。ちょっとは空気読みなさいよ」 そう言ってオレに向かって犬を追い払うがごとく手を振るのは黒川花だ。 先ほどのプリンの一件でも大きな悲鳴を上げていたクラスメイトでもある。 しかし黒川の存在意義はそこにはない。彼女は学校のアイドル、笹川京子の親友なのだ。 男なら誰だって京子ちゃんに無視されたり、悲しい顔をさせたくないから、自然と親友である黒川への当たりも優しくなる。 それを誤解しているならまだ可愛い気もあるが、分かった上でリボーンを除いた同い年の男どもをガキだと鼻で笑っている女だ。 そんな黒川はすぐにオレを無視してリボーンへ声を掛ける。いつもよりトーンが高くて高揚しているように思えるから可愛いというより怖い。 リボーンもリボーンで生まれたお国柄のせいか女の扱いはお手の物らしく、オレには見せないようなお綺麗なすまし顔で黒川と談笑していた。 2人の話に割って入れないオレはすごすごとカーテンの奥へと引っ込むと、脱いだ勢いで床に散らばっている制服を掴み腕に抱える。 顔と髪に付いていたプリンは先に流しで洗ったので匂いは取れただろう。 さてどのタイミングで顔を出すべきか悩んでいれば、またも扉の開く音が聞こえた。 「花、ツナくんどうだっ……あ、」 京子ちゃんの声を聞きつけたオレは俯いていた顔を上げてカーテンの向こうに視線を向ける。 するとオレに訊ねる声もなく、突然カーテンが開かれた。 「大丈夫だぞ。な、ツナ?」 「え!あぁ、うん!」 なんの心構えもなく京子ちゃんと対面させられたオレは、ベッドにだらしない格好であぐらを掻いたままの姿勢でコクコクと頷く。 それに黒川が呆れ顔で水を差した。 「大丈夫でしょ。沢田って丈夫だけが取り柄だからさ」 「悪かったな!」 黒川の言葉にムッとしながらベッドから立ち上がると、京子ちゃんはほっとしたようにオレに笑い掛けてくれる。 「よかった!他の女の子たちもツナくんに大声を出して悪かったって言ってたよ」 「そ、そう…?」 多分、いや絶対にそんなことなど欠片も思ってはいない女子の面々を思い出す。きっと誰にでも優しい京子ちゃんが心配してくれて、その言葉尻に乗っただけに違いないのだ。 中学入学から半年で、よくもここまでという嫌がらせを女子にされている。それもこれもこいつとの約束のせいだと知っていたが今更逃げることもできやしない。 どうしてあんな約束をオレはしてしまったのだろう。 ため息を吐きかけたことに気付き、慌ててそれを飲み込んだ。 ひとつため息を吐くごとに、幸せもひとつ逃げていくと聞いたからだ。 わざわざ覗きにきてくれた京子ちゃんに感謝の気持ちも込めて笑い掛けると、それを見ていたリボーンが京子ちゃんからオレを隠すように立ち塞がった。 「そういや京子は女子校に行くんじゃなかったのか?」 前後の繋がりも、脈略もないリボーンの問い掛けにオレは目を見開く。 残念ながら京子ちゃんの顔が見られないが、ずっと不思議に思っていただけに興味はあった。 慌ててリボーンの後ろから顔だけ出すと、京子ちゃんは困ったように眉を寄せて口を開いた。 「一つ上の学年にね、お兄ちゃんがいるの。ボクシングが大好きなんだけど少し喧嘩っ早くて……」 心配なのと続けた京子ちゃんに成る程と頷いていると、黒川はオレの胸倉を掴んで睨みを利かせた。 「いい!?京子のお兄さんのこと、べらべら喋ったら私が許さないんだから!」 「分かった……ってか、そんなことしないよ!」 そもそも京子ちゃんにお兄さんがいたなんて初耳だ。 しかもどうしてオレにだけ威嚇するんだと不満げに黒川を睨み返すと、横からリボーンが助け舟を出してくれる。 「京子は兄貴思いだな」 「えっ、ううん!お兄ちゃんすっごく優しいの!」 見ているだけで兄妹仲がいいのだと分かる笑顔に、オレも黒川も気勢が削がれた。 ふいっとオレから顔を背けた黒川が、リボーンにだけ手を振って京子ちゃんと一緒に保健室から出ていく。 その背中を見送ったオレは、隣でオレの顔を覗き込んでいたリボーンに視線を合わせた。 「お前、本当は知ってたんだろ?」 どこから仕入れてくるのか、はたまた取り巻きの女子が喋ってしまうのか、リボーンは驚くほど情報通だ。 だから京子ちゃんが女子校をやめた理由なんて知っていた筈だと確信する。 小学校の卒業遠足でリボーンの傍から逃げない約束させられたオレは、こうして中学に入ってからというもの否応もなく隣に居続けさせられている。 だからという訳でもないが、リボーンがすることの意味は分からないながらも意図は読めるようになってきた。 オレに聞かせたかったらしい京子ちゃんの事情。それで何をオレに伝えたかったのか。 じっとリボーンを見詰め返していると、黒い瞳は不機嫌そうに細まる。 「京子は兄貴が気になって中学を変えたんだぞ」 「うん?聞いてたよ」 今聞いたばかりなんだと言い返せば、リボーンは呆れたように肩を竦めた。 「離れたくねぇから、ここにいるんだ」 その声は京子ちゃんの心の代弁ではなく、リボーンの気持ちそのものみたいに聞こえる。 いつもみたいにからかうでもなく、静かな低い声はオレの深い部分に入り込んできた。 リボーンから渡された『宿題』は半年経った今でも手付かずのままなことを思い出して、何か言わねばと口を開く。 「えっと、あのさ」 言いたかったことがある。 聞きたかったこともある。 けれど言葉にしたら今のオレ達じゃなくなってしまう気がして、声に出せなかった。 今なら聞けるだろうか。 言ってもいいだろうか。 喉の奥からせり上がる何かが口から零れ落ちるように音になる、その瞬間に横からの視線に気が付いた。 「ああ、こっちは気にすんな。続けろ、続けろ」 そう気軽な口調で先を促されても続けられる筈もない。 いつの間に帰ってきていたのか、怠惰な保険医がボサボサの髪を手で掻きながら、オレとリボーンの間にしゃがみ込んでいた。 「てめぇ、わざとか」 押し殺した声で保険医を睨むリボーンとは逆に、何故か助かったと思ったオレは肩の力を抜いて止めていた息を吸い込んだ。 「ま、言わされるのはよくねえだろ。強引過ぎると逃げられるってな」 「うるせぇ」 軽口を叩く保険医に冷たい一瞥をくれると、リボーンは早足で保健室を後にした。 それを慌てて追っていく。 「リボーン、あのさ!」 昼休みの廊下は人も多いし、耳もある。大声を張り上げるのは恥ずかしい。 でもこれだけは言わなきゃいけない。 オレの声に振り返ってもくれないリボーンだが、こちらを気にしているのは分かっているから尚更だ。 「オレ、リボーンといられて嬉しいよ!」 叫ぶ勢いで声に出すと、一瞬だけリボーンの歩みが止まる。 もう少しでリボーンの背中に追いつくといったところで、また目の前の背中は遠ざかっていく。 「リボーン!」 待って欲しいと、オレに視線を向けてと声に出せない。 もどかしい思いで背中を見詰めるオレに、リボーンはボソリと呟いた。 「……もう一声」 「なにを、」 「半年も待ってやってるんだぞ、ちっとぐらい期待して何が悪い」 「だから何のことだよ!」 意味が分からないと張り上げた声に、リボーンはぼやく。 「チッ、ツナの癖に生意気だぞ。早く口を滑らせろ」 とりあえず、言ってはいけない台詞があることだけは確かなようだった。 2013.09.11 |