16.オレンジ色の日が地平線の奥へと沈み、宵の暗闇が足元から忍び寄ってくる。 紫や黄色、濃紺へと徐々に色を変えていった空は6時を過ぎれば星の瞬きが映える夜空へと様変わりしていた。 オレに押し切られる形で後ろをしぶしぶ着いてきているマーモンはそれでもオレを守ることを放棄してはいなかった。 バスから降り、街灯の少なくなった夜道で姿を変えたマーモンがフードの奥から不満げな声を上げる。 「これだけは言っておくけど、ボクはお前しか守る気はないからね。」 「分かってる。」 決まり事を破らせるのだ。それくらいは覚悟していた。 オレを守ることと監視が役目だというのに、それを見逃して貰っただけでもありがたい。 どうやらこの姿が本来のマーモンらしいのだが、目深に被っているフードと身体のラインを覆うマント姿の上にオレとそう変わりないくらいの身長は、やはり男とも女とも判別できなかった。 「それよりもさっきの話、約束だからね。」 「うん。」 血を分けるという契約は拒否され、代わりに金銭でいいと要求された。 どうやらヴァンパイアたちにとってオレの血というのは価値もあるが毒でもあるらしい。 麻薬のように一度口にしてしまえばその味を忘れられず、繰り返し欲してはどちらかが死ぬまで乾きが癒えることがなくなる代物らしい。 だからこそヴァンパイアたちはこの血を吸うことを恐れて口にせず、代わりに人狼たちは喰い尽くすからこそそんな心配もなくオレを欲するのだと知った。 「あんまりたまってないんだけど、それでもいい?」 「ま、許してやるよ。」 そう大仰に肩を竦めて頷くマーモンに苦笑いを返すとまた歩き出した。 地図で確認しているところを父親に見付かってしまい、マーモンにお願いして少しの間眠って貰ったところを抜け出してきた。 場所は知っている筈のマーモンは、オレが行くことを許してはくれたが積極的に賛成している訳ではないので教えてはくれなかったのだ。 コピー片手に幾度か道を間違えながらもどうにか目当てとおぼしき建設途中の建物の前まで辿り着いた。 聞いたところによると、この不景気のせいで建設の途中でその企業が不渡りを出してしまい今ではこれ以上進めることが困難となってそのまま放置されているということだった。 ひっそりと静まり返った夜の建設現場は人狼が居ると分かっているせいではなく気味が悪い。 リボーンたちも来る筈なのだがまだ到着していないのか、夜になるまで待っているのかどちらだろうか。 マーモンを振り返ると首を振って分からないのだとジェスチャーで答える。 「ボクはお前を外に出さないことと、人狼から守ることしか聞いちゃいないよ。実動班はリボーン、ラル・ミルチ、コロネロの3人だということしか知らないね。」 「ラル…なんとかとコロネ?とかいうのも同じヴァンパイアなんだ。」 「ラル・ミルチはお前の父親がよく知っていると思うよ。コロネロはラルの弟子だね。ヴァンパイアなのはコロネロだけで、ラル・ミルチはなりそこないさ。」 それ以上は説明する気がないのか、それとも本当に知らないのか口を噤んでしまった。 なりそこないだというラルを入れて8人いる内の4人までもが日本に揃っていることになる。 ともかく、リボーンたちが動き出す前にどうにか京子ちゃんを助け出さなければならない。 「スポンサーに死なれちゃ困るから出来る限りは助けるけど、ボクはあいつらと違って戦闘は不得手なんだ。ムリだと思ったら子供がどうなろうとお前だけは逃がすよ。」 「それじゃ困るよ。オレはどうでもいいから京子ちゃんは助けたいんだ。」 「ムリだね。」 素気無く横を向くマーモンの前に回りこむと手を合わせて拝みこむ。勿論、預金通帳と印鑑、キャッシュカードも忘れちゃいない。 「お願い!先に払うし、助けたら絶対逃げるから!」 200万そこそこだがオレにとってはなけなしの金だった。 たとえ人狼に喰われてしまったとしても京子ちゃんが助かるのなら悔いはない。 ジッとマーモンを見詰め続けると、本当に呆れたように長い長いため息を吐き出して頷いてくれた。 「分かったよ、キョーコを助ければお前もこの場から離れるのか。それなら話が早い。……どうやらお前の匂いを嗅ぎつけたヤツがおでましのようさ。」 そう言うとマーモンの後ろの物陰から現れたのは、先ほど保育園で京子ちゃんを攫っていった人狼だった。 こげ茶のたてがみと狼のような風貌のそいつは、しかし身体はオレの倍くらいありそうな人と同じ体躯を持っている。 腕には京子ちゃんは見当たらず、慌てて辺りを見回すと奥の鉄筋しかない天井と思われる場所からロープで吊り下げられていた。 「京子ちゃん!!」 「せ、んせ…」 ずっと泣き続けていたのか、声は掠れ叫ぶ力もなく吊り下げられたままの状態でぐったりとしていた。 駆け寄ろうと足を踏み出すとマーモンが術で足の自由を奪う。 目の前のフードを睨み付けると鋭い舌打ちの後、顔を横に背けられた。 「なんだ?そいつはいつものヤツと違う…匂いで分かるぞ、お前の身体からプンプン匂う忌々しいまでのヴァンパイアの印と違うからな。」 「フン、だから嫌いさ。バカの癖に鼻だけはいいんだから。」 どうやらオレからリボーンの匂いとマーモンとの違いに気付いたようだ。 開き直ったマーモンが声を出すと人狼の濁った瞳が爛々と輝く。 大きな口からはみ出る赤黒い舌がベロンと舌なめずりした。 「お前たちヴァンパイアは治癒能力に長けているが、オレたち人狼は痛みに強い。腕がもげても、足がなくなろうと一度喰いついた獲物から離れることはない。」 そいつを喰らうことが楽しみだと吼えるように笑うバケモノにゾッと背筋が凍る。 だからといって逃げ出す気にはならなかった。 マーモンの肩に手を置くと、パンとわずかな音がして足にかかっていた術が解ける。 まさかオレに解かれるとは思っていなかったらしいマーモンが驚きの声を上げても、無視して一歩また一歩と人狼へと近付いていった。 「約束だ。京子ちゃんを離せ。」 恐怖でガクガクと笑う膝を気力で押し上げて人狼の目の前で止まる。 淀んだ瞳が全身を舐めるように這い回ると、いいだろうとオレの後ろのマーモンに向かって顎をしゃくる。 「お前が子供を助けに行くんだ。」 「バカ言わないでよね。その隙にこいつを食べる気だろ。」 「当然だ。」 言うが早いか人狼がオレに手を伸ばし、その長い爪でオレの胸を引き裂こうと迫ってきた。 やられる!と目を瞑った瞬間、後ろに引かれ着ていたコートが胸から下で真っ二つに裂ける。 軽々とオレを抱えたマーモンが床を蹴って吊り下げられている京子ちゃんに飛びつくも、その前に人狼が飛び出てきた。 「お前とこいつは交換だ。こいつを目の前で喰われたくなくばここまで一人で歩いて来い。」 「呑めない条件だね。お前はそう言いながらその子もこいつも喰らう気だろ。」 まるで重力を無視した跳躍力でオレを抱えたままのマーモンはふわりと床に降り立って呟いた。 それを人狼は力で重力をねじ伏せて飛んでいく。腕には京子ちゃんを縛ったロープが握られて、その先で京子ちゃんは恐怖に耐えながら目を瞑っている。 「早く放せ。オレが一歩踏み出したところでその薄汚い手を放さなければ、オレはこれで自害する!」 こっそり握ってきたそれを見たマーモンと人狼が驚愕の声を上げた。 それは刀というには小ぶりで、しかも両刃というより槍のように先が尖っている。 祖父から受け継いだものだった。心臓まで一突きで到達する長さとその切れ味のよさは折り紙つきで、代々父方の嫡子のみがいざというとき自害するために作られたものだと聞いていた。 多分、祖父もその前のご先祖さまたちも自分の血の価値を弁えていたのだろう。 死んでしまえば血の効力は消えるとリボーンから聞いたことがある。あくまで生きているオレの血が肉が欲しい人狼にはこれが一番きくだろう。 ただの布切れになってしまったコートを脱ぎ捨て、心臓に向かって刃の先を押し付けるともなく洋服の奥へと吸い込まれていく。 肌に痛みが走り、それを見た人狼が慌てて京子ちゃんを床に降ろした。 「わ、分かった。お前が踏み出したところで手を放そう!」 表情の読めない人狼が鼻面に皺を寄せて吼える。 それを聞いて頷いたオレは、一歩踏み出そうと足を床から浮かせ前へ滑らせた。 「ツナヨシ!」 床を踏み締めたところで人狼の手から解放された京子ちゃんがふわりと浮き上がり、それを確認してから刺した刃に力を入れて押し込んだ。 生き続ける気はなく、また生き永らえたとしても別のモンスターに狙われる人生ならば自分の手で死にたいと思っていた。 血の価値なんて分からない。欲しければくれてやると思っても、その血のせいで争奪戦が始まるのならばいっそなくなってしまえばいい。 これでリボーンとも二度と会えなくなってしまうが、どの道オレが生きていようが死のうが二度と会うことなど叶わないことも知っていた。 オレはまだ子孫を作っていないから、これでリボーンがオレたちの血の番人をする必要もなくなるだろう。 迫り来る人狼より早く突き刺さねばならないのだと、勢いよく押し込んだ刃がパキンと音を立てて手元から崩れていった。 目の前に迫る人狼も手前で失速し、床に崩れ落ちる。 もがく人狼の足元を見るとワイヤーが巻きつけられ、身動きが取れないように足に絡みついていた。 手から零れ落ちた剣の残骸を前にわずかに皮膚に刺さっていた先の残りに指を這わせる。 呆然と足元を見つめていると、カツンと音を立ててひとつの足音が暗闇から突如現れた。 . |