9.どうにか出勤時間に間に合ったオレは、ロッカーからエプロンを取り出すとジャケットを押し込めて鍵を掛ける。 結局昨日からまともな食事にありつけなかったが、今は食欲なんて湧かないからそのままだ。 いつも眠そうな顔をしているせいか、朝鏡で確かめてもそれほどひどい顔にはなっていないと思う。オレのことなんて気にする人もいないだろうから大丈夫だと頭を振るとロッカーに背を向けた。 出勤のために乗っていたバスの中で何度もメールを打とうとした。手に取ってボタンに指を掛けては押せなくて閉じる。そんなことを3度ほど繰り返していると、いつも降りる停留所に着いてしまった。 訊きたいことはあった。 どうして帰ってきているのに連絡をくれなかったのか。 オレから送ったメールの返信がなかったのは何故か。 だけど送れなかった。 自分が男だからだという後ろめたさがある。 見てしまった相手が似合いの美人だったということにも打ちのめされた。 だけど一番の理由は、リボーンがどこまで本気なのかがオレには分からないから怖くて言い出せなかった。 ダメでもともとのつもりで告白したのにどうしてか付き合うことになり、それからマンガみたいにトントン拍子に上手く事が進んでいったから逆に懐疑的になって。 そんなところに昨晩のあれだ。 仕事柄男女ともに知り合いが多いリボーンだから、単に仕事相手なのかもしれない。だけど美女の方には明らかにリボーンを落としたいという意図が見て取れた。 浅黒い肌をあの寒空に晒し、酔ったフリをしてしな垂れかかる姿は誰が見てもそう受け取ると思う。 リボーンも嫌がるでもなく腕を回し、2人で消えていった先にあるのは外国人がよく泊まるホテルではなかったか。 それを受け入れたくなくて、馬鹿みたいにリボーンからのいつもの返信をただ待ち続けた。 嘘でもいい、騙されてもいいからメールが欲しかった。 だけどメールは届かない。 やっぱりただの興味で、あれはオレをからかっていただけなんだと知った。 別にオレみたいなつまらない男を時間を掛けて相手にするほど暇でもないのだから、いずれこうなるんだろうなと覚悟していたことではある。 いずれが今になっただけだ。 開店準備をしている店内に足を踏み入れれば、同じく早番で出てきていたバイトの女子高生がオレを見付けて頭を下げる。どうしたのかと首を傾げていると、頭を下げたまま声をひそめて話し始めた。 「実は、その……昨日風邪で休んだのは嘘だったんです。本当にごめんなさい!」 驚きはしたものの、この子が昨日休んだことすら忘れていたから反応が薄くなる。忙しかったけれどそれもこの時期ならばと納得済みだったからだ。 別にいいよと答えてシャッターを開けるべく出入り口に向かう。するとその後ろから箒とちりとりを片手にバイトの子が追い掛けてきた。 「開けるよ」 「あ、はーい。って、沢田さん何かありました?」 シャッターのボタンを押して開けていると、その横から掃きはじめたバイトが小声で訊ねてくる。先ほど顔を合わせたばかりだというのに、女って本当に鋭いなあと肩を竦めて苦笑いを返した。 「んー……振られちゃってさ」 「えぇぇえ!!っと。ごめんなさい……」 バイトの子の大声がフロアに響き、店長が驚いた様子でレジ前から顔を覗かせた。それに何でもないと手を横に振って、完全に開き切ったシャッターを確認してから中へと入る。 昨日差し込みを終らせた雑誌を並べ、減っていた雑誌の補充を済ませると、もう少しで開店時間になるところだった。 店内の掃除もするかとレジ中にある箒を取りにいけば、バイトがこちらを見ていた。 まだ何かあるのかと顔を上げると、意を決したようにバイトが口を開いた。 「他人事なのにうっとおしいと思われるかもしれませんが、一言だけ言わせて下さい。振られたって言ってましたけど、それ確認しました?」 訊かれて言葉に詰まる。確かめた訳じゃないが、決定的な物証はあるといったところだ。 そもそも相手が男だなんて思ってもいない子に話せる訳がないと曖昧に笑って逃げ出そうとすれば、オレの後ろを彼女はついてきた。 「私もそう思ってたんです」 箒をかけるオレの横で空いていた棚を見付けたバイトの子がポツポツと喋り出した。 「私、ずっと好きだった人がいて、だけどその人すごくカッコいいからいつも彼女が居たんです」 リボーンと似たタイプなのかなと思っていると、手を止めたバイトが嬉しそうに笑顔になった。 「サッカーしてて、それで強い学校に通ってるんですよ!」 本当に好きなんだなとその顔で分かる。どちらかといえば、親友の山本みたいなタイプだろうか。 爽やかだけど、ここぞという時には頑固で引かないんだよなぁと思い出していれば、バイトは止めていた手を戻して本を棚に並べ始めた。 「昨日バイト前に駅前でバッタリ会って、その時は彼女連れてなかったからどうしたのって聞いたら……私を待ってたって」 だから昨日は来れなかったのかと納得して、それにつけても年下の女の子に励まされてしまう自分に苦笑いした。 「本当にごめんなさい!ちゃんとバイトしなきゃって心を入れ替えました。だから、沢田さんも騙されたと思ってその人に訊いてあげて下さい。待ってるかもしれないじゃないですか」 生意気言ってすみませんと頭を下げたバイトの子が、慌てた様子でレジに向かう。その向こうでは店長が一人で帳簿をつけていて、オレも手早く掃除を済ませると開店の支度をするべくレジへと足を向けた。 年末年始は物流が動かないせいで、書籍の発売も前後にずれる。代わりにバックヤードには在庫が積まれているが、どこまで売れるのかなと心配になるほどだ。 丸一日を働き通したオレは昨日より早めに帰された。どうやらバイトの子が店長に話してしまったらしく、申し訳なさそうな顔で閉店早々追い出されたからだ。 一人になるより仕事をしていた方がマシだなんて言い出せない雰囲気に、すごすご引き下がってこうして家路を歩いている。 最終のバスに間に合ったせいで、この分では12時前には着いてしまいそうだ。 今までとは違い、綺麗に整頓してある自分の部屋はどうしてもリボーンの存在を思い出してしまうから帰りたくない。 ジャケットに入れたままの携帯電話はあれから一度も覗けずにいる。メールがなければへこむし、あれば卑屈なことを考えてしまいそうで怖い。 訊いてみろなんてアドバイスを貰いはしたが、その少しの勇気さえだせそうになかった。 ポケットに手を突っ込めずにいるせいで、深夜の冷気に手がかじかんでいる。 それでも気が付けばアパートの自室の玄関まで辿り着いていて、冷えた手で鍵を取り出し差し込んだ。 ガチャという音が響いて誰もいないことを知らしめる。 片手でドアを閉め、適当に脱ぎ散らかした靴を整えもせずに手を伸ばしてキッチンに明りを灯そうとして止める。玄関だけを照らす小さな明りのままキッチンへと向かう。 テーブルの上に置いたままのカップに視線を落として今朝何を飲んでいっただろうかとぼんやりと考えながら、夜食のつもりで買ってきたサンドイッチを冷蔵に入れようと手を掛けた。 何気なく開いた先には忘れていたものが存在を主張するように鎮座している。小さい冷蔵庫の真ん中に置かれていたケーキはコンビニで昨晩買ってきたものだ。 リボーンが帰って来ないと知っていても、電話越しでもいいから一緒に祝えたらと思っていたらあれだ。 サンドイッチを手にしたままで冷蔵庫を閉めると床の上にしゃがみ込む。明りも暖房も入れていない部屋は寒くて暗い。だけどそれをどうにかしようという気にもならないまま膝を抱えて顔を埋めた。 逢いたい。 クリスマスだからじゃなくて、リボーンに逢いたいと思った。 堪えていたものが堰を切ったように溢れ出てくる。 好きだと告白したのに、嫌われたくなくて我慢ばかりしていた。訊ねてばかりで自分から逢いたいとか傍に居て欲しいとか言えなかったのは、どうせすぐに飽きられるからと一歩引いていたせいだ。 こんなことなら素直になっていればよかった。 近くに居たのに何も言えなかった自分に腹が立つ。 唇を噛んで嗚咽を堪えるも膝の上はじっとりと湿っていった。鼻をすすった拍子に涙腺が決壊してズボンが肌に張り付く。 ぎゅうと抱えた膝を目頭に押し付けていれば、ジャケットから鈍い音を立てて携帯電話が落ちてきた。 チカチカとメールの受信を知らせるランプが点灯していることに気付き何も考えることなく手を伸ばした。 『帰るぞ』という一言だけを目に入れて呼吸が止まる。 送信されてきた時間を確認してから、我慢しきれずにボタンに指を伸ばした。 すぐに呼び出し音が聞こえて、祈るように電話が繋がることを待つ。耳元から流れる単調な電子音に、オレから電話をしたのは初めてだなと気付いた。 幾度目かのコール音にため息を吐いて携帯電話の画面を見詰める。 もう遅いということなんだろうか。 これを切ったら二度と電話を掛けられない気がして、繋がれと睨みつけた。すると画面の表示が通話に変わる。 『どうした?』 歩いている最中なのか少し聞き取り難い声が聞こえてきた。 仕事だと言っていたのに電話をしてきたことを不審に思われたかもしれない。オレが昨晩見掛けたことなんて知らないのだから当然だろう。 繋がりがなくなっていなかったことに安堵して、それだけでいいとまた涙が出てきた。 聞かれないようにと息を詰めながら、どうやって誤魔化そうかと考える。だけど、出てきた言葉は一言だけだった。 「っ、あいたいよ!」 12時を告げる掛け時計からの音を聞きながら、馬鹿なことを口走ってしまったことに気付いて口を手で押さえた。 外国からついてくるほどの親密な関係の人がいて、週ごとに異なる彼女もいるような男に言うべきじゃなかった。 クリスマスなんてカップルの一大イベントなのだから、それを邪魔する無粋は自分の役どころじゃない。分かっていたのについ零れた本音に、関係の終わりを告げる音が聞こえた気がした。 ボーン、ボーンと小さくなっていく掛け時計は、母が勝手に置いていったもので、夜中に聞くと寂しくなるから音を消していたのにリボーンが見付けて音が出るようにしていった。 その音に見送られるんだなとぼんやりとしていれば、電話の先から続いていた無言がため息に掻き消された。 びくっと肩を揺らして続きに耳を傾けた。 『お前、どこに居るんだ?電気も点いてねぇじゃねぇか』 「え…?」 電気と言われて上を向くと確かに部屋の明りは灯っていない。ということは。 床の上にしゃがみ込んでいた足を蹴り上げて、靴を履くのももどかしく玄関のドアを押し開けた。勢いよく開いた先には何もなくて、縋るように顔を横に向けるとリボーンが居た。 . |