「京子先生っ!」 と背中から甲高い声が隣の妹にかかったのは近所のスーパーの帰り道のことだった。 帰国したばかりの俺は時差ボケに重くなった身体に活を入れるべく、妹の京子のおつかいの荷物もちを買って出ていた。 妹の京子は昨年大学を出たばかりの新米教師で、今は小学校で2年生を教えていると聞いている。 プロボクサーとして身を立てている俺は日本での試合のみならず、強い相手を求めて海外に武者修行の旅に出ていて、今朝帰国したばかりだからその声の主が誰なのか見当もつかない。 「あら、ツナくん?お買い物?」 「はいっ!京子先生もお買い物ですよね。あの…そっちの人は…」 ツナくんと言っているからには男の子なのだろう。多分、妹の生徒だと思われるその子供は随分と面白い髪型をしていた。 これではヘッドガードに入らないのではないのか…と思いマジマジと見詰めていると、隣で妹がくすくすと笑いだした。 「またお兄ちゃんボクシングのこと考えてたでしょう?」 「おにいちゃん…?って、京子先生のお兄さんなの?」 「うん、そうだよ。笹川了平っていう、一応プロボクサーなの。」 「一応とは失礼だぞ、京子。まぁ…その、ボクシングのことしか頭にないのは確かだが。」 そう答えるとその子供はホッと息を付いていた。見た目は少女のように見えても、中身はれっきとした男の子だということか。 そういえば俺も初恋は小学校時代の担任だったと思い出していると、その子供が大きな瞳を益々大きく見開いて俺の足元に近付いてきた。 「プロボクサーなんだ…すごい…!試合っていつやるの?!」 「いや!今は休養をしに帰国したところなのだ。師匠…トレーナーに俺は試合のしすぎだから少し休めと言われてこうして日本に帰ってきたのだ。」 「…えっと、京子先生のお兄さんは外国で試合をする人なの?」 「そうだ!日本では強い相手がいなくて試合はできないのでな!ん?少年、ボクシングに興味を持ったか?!」 「い、いいえっ!!」 即座に返ってきた返事に少しがっかりしながらも、こんな細腕ではボクサーになることも叶わないかと頷いて、しかしいい目をしているとジロリと少年を眺めていると、後ろから声が掛かった。 「ちわーっす!笹川先輩、帰ってたんすか?」 「おお!山本ではないか!」 中高の後輩で大リーガーにまでのぼりつめながらも、故障で志半ばで引退した男が手を振りながらこちらに近付いてきた。 山本の実家は寿司屋で、並盛商店街の一角にあるのだから、ここで顔を合わせても不思議ではない。 一時は塞ぎこんでいたと聞いていた山本だったが、この表情を見るにつけ杞憂だったかと胸を撫で下ろす。 「お、ツナ!一日ぶりだな!」 「こんにちは、武兄。それ言い方がおかしいよ?毎日会ってるのに。」 「そんくらいいつも一緒にいたいってことだぜ!」 いつの間に宗旨替えをしたのかと驚いて山本と少年を眺めていれば、隣にいた京子が腰に手を当てて山本の前に立ちはだかった。 山本より頭2つ分ほど小さい身体で、いつもとは違う顔をしてみせる。 「いくら山本くんだからって、そういうのは感心しないよ?ツナくんはすごく可愛いけど、男の子なんだから!」 いつの間にか教師として児童を預かるという責務に目覚めたのか。あの小さかった京子がと思えば目頭が熱くなる。 「うおぉぉお!俺は嬉しいぞ!!立派な教師になったのだな!よし!俺が山本を更正させてやる!ついて来い、山本!」 「ちょっ、勘弁して下さいよ!」 四の五のと文句を言う山本の腕を引っ掴むと、手にしていた荷物を京子に放り投げて懐かしい商店街を駆け抜けた。 それを見ていた京子と少年が、顔を見合わせて肩を竦めていたことなど知らずに。 トレーニングを禁じられてから7日ぶりのランニングは、思いの外自由にならない筋肉との戦いでもあった。 重くなった身体を負荷を掛けることで戻すべくスピードを上げていくと、後ろから声が掛かる。 「せんぱーい!オレもう現役離れてしばらく経つからついていけないって!」 「なにをだらけたことを!男なら根性だ!極限、根性でどうにかなる!!」 山本の存在を失念していた俺は、少しだけスピードを緩めると山本に肩を並べて川縁へと歩を進める。 現役を離れたとはいえ、自分のランニングについてくることの出来る山本に顔を向けると曇りのない笑顔を見せてきた。 やはり以前の山本と変わりないように思える。 少し話をするかと徐々にランニングの速度を落としていけば、額に汗を浮かべていた山本が大きく息を吐き出した。 「助かった…!これ以上は無理だった!」 並んで歩く後輩の背中が大きく上下している。変質していない山本のらしさを確認しつつ、京子のためにも釘は刺しておかねばならない。 「そんなことだから稚児趣味におちいるのではないか?」 「ブッ!誤解っすよ、先輩!」 半袖の袖口で汗を拭っていた山本が慌てた様子で手を横に振る。しかし先ほどの少年への態度が態度だけに安直に信用はできない。 「大体オレがショタコンだっていうなら、リトルリーグの監督なんて務まらないって!」 「だからだな…お前がいたいけな子供たちを誑か、」 「してませんよ!誓ってツナだけっす!」 「それがいかんのだ!更正しろ!」 「イヤイヤイヤ!!それも意味が違うっていうか…」 俺と同じく体育会系である山本は言葉を探すように唸り声を上げながら顎を撫で擦る。歩くというより走るに近いスピードでの会話の途中で身体を左右に振っていれば、やっと山本が言葉を継いだ。 「ツナは、オレにやり直す勇気をくれた恩人なんですよ…肩を壊して、今まで頑張ってきた自分にはここにもどこにも居場所がないって迷ってた時にそういうオレでいいんだって受け入れてくれたヤツなんです。まぁ、本人は全然自覚してないみたいですけど!」 ニカリと笑う山本に思わず声を失って顔を横目で確かめると、手で顔を扇ぎながらクスリと口許を歪めた。 「だから好きっつーか、惚れてるっていうんすかね?」 「うむむ…分からんでもない。だがそれでは京子が困るのだ!」 「無理ですって!やめろって言われてやめられるんならとっくにやめてるもんじゃないっすか?……でも、強力なライバルがいるんで空振りしっぱなしっす!」 「ライバル、だと?」 嘆かわしい連中だと声を顰めたところに、突然携帯電話が鳴り響く。持てと言われてしぶしぶ従っているだけのそれは、着信音すらそのままだ。 ピリピリ…と耳障りな電子音に促されて首から提げていたそれを手にすると京子からだと画面が教える。 携帯電話なんぞ出ないと公言している俺に京子が電話をかけてきたのはこれが初めてだ。 なにかよくない事態に巻き込まれたのだという虫の知らせに従ってすぐに耳を当てた。 「どうした?なにかあったのか?」 『お兄ちゃん…どうしよう、ツナくんが…ツナくんが迷彩色の服の男に連れ攫われちゃった!警察に届け出たけど、私の目の前で…私、』 震える声に京子の動揺が伝わる。何も出来なかった自分に憤る妹の姿が浮かんで、即座に駆け出した。 「任せろ!俺が必ず助け出してやる!お前は親御さんへ説明するんだ」 『う、うん!もうしたの。そうしたらすごいことになっちゃって…』 京子の声に被さるようにバイクの音が鳴り響き、その後ろから複数のバイクと時代錯誤な恰好をした男たちが続いていく。 あれは確か元同級生でこの街の支配者である雲雀ではないかと首を傾げながら、バイクの向かう先を眺めていれば、今度は黒塗りの外車がバイクに続けとばかりに後を追っている。 それを目にした山本が慌てた様子で俺を追い抜いていく。 「ツナになにかあったみたいだから、ここで!」 「い、いや待て!俺も行こう。」 黒塗りの車の前に滑り込むように駆け出していった山本の背中に続いた。 つづく |