重い鉄の塊を手にすることになんら違和感は感じなかった。否、生きていくために感情のスイッチが壊れてしまったのかもしれない。 其れは人の命を奪うために生まれた道具で、自分は其れを誰よりも早く正確に使いこなすことができた。 ただ、それだけだった。 その日もターゲットの観察と一日の行動を追っていた。 どのタイミングで狙撃するのかは一任されているが、そろそろ日にちが迫ってきている。 オレのような後ろ盾のないフリーの殺し屋に依頼してくるのは、大抵が後ろ暗いところがある人物ばかりだった。 ましてオレは表に出ることもない。間に幾人かの繋ぎを通してのみ受け付けるような仕事の受け方しかしていない。それでも依頼が後を絶たないのはひとえにしくじったことがないからだろう。 誰も顔を見たことがないと噂になっていることも知っていた。仕事柄、面を割られることは死に繋がるのだが、オレにはそれ以外にも理由があった。 グレーのコートのポケットに手を突っ込んで浅く被ったハンチングを少し深く被り直すと、その場からゆっくりと立ち去る。 足元の子犬はカモフラージュに持ってこいだったが、そろそろ役目も終わりを告げる。 リードを離すと犬用のクッキーを手の平に乗せ、頭を一撫ですると逃がしてやった。 犬は駆け出していき角を曲がって見えなくなったところで踵を返す。と、その角の向こうから犬のキャンキャンという嬉しそうな鳴き声とともに聞き慣れぬ言葉が聞こえてきた。 確かこれは日本語というやつだった筈。 そう思っていると、後ろから声が掛る。 お世辞にも綺麗とは言い難いイントネーションながらも、一応聞ける程度のイタリア語で。 「こ、こんにちは!この犬探してたんだ。君が面倒見てくれてたんだろう?ありがとう。」 違うと切り捨てようと後ろを振り向くと、まだ年若い青年が子犬を抱えてこちらに笑い掛けてきた。 その顔にぎくりとする。 ターゲットの側近だったからだ。 顔を見られる訳にはいかないと慌てて顔を背けると、それを追うように上から覗き込まれる。 小柄な青年よりもなお小さい自分が恨めしい。 おうとつの少ないアジア系の地味なパーツの中に一つだけひと際目を引く大きな瞳がじっとこちらを見詰めていた。 ミルクチョコレート色の瞳は艶々としていてうまそうだ。 「3日ぐらい探してたんだ。オレの今の上司の愛犬でね。お礼させて貰えないかな?」 「いらねぇ。」 あんな屑のようなターゲットの下につくにはあまりに若いその青年の瞳に魅入られてしまっていた自分に気が付いて、くやしさからわざとぞんざいに返事をした。 取りつく島もないように歩きだせば、慌てて後ろからついてくる。 身長はわずかにオレの方が低いのに、足の長さは逆だったのかちまちまと後ろをついてくる姿に笑いが漏れた。 「笑うなよ!オレの足が短いんじゃないよ、君が長いんだ。」 「そうか?」 逃げ切らなければと思っていたのに逃げられず、思わず足を止めて振り返った。 「ジャッポーネでは、一宿一晩の借りとかいうらしいな。分かった、そんなに礼がしたいなら金を寄越せ。」 わざと露悪的に言ってやる。まだイタリア生活に慣れていなそうな青年を撃退するくらいわけもない。 そう思っていれば目の前の青年はおもむろに懐から財布と取り出すと手元にあったすべての札を取り出した。 「身なりもいいし、そんなに困っていなさそうだけど、これくらいで足りる?」 握らされた金額に目を剥いた。殺しの依頼として受け取った前金と同じ金額だった。 普通の会社員では到底手にすることもできないようなそれを突き付けられて思わず目を合わせてしまった。 「…ごめんね、本当は知ってたんだ。それで手を引いてくれるとありがたいんだけど、やっぱり無理かな。」 「いつからだ。」 話しながらも辺りを窺うがこいつ以外に気配はなかった。それでも手はしっかりと懐の銃を探り、わずかな状況も見逃さないように意識を拡散させていく。 それを見ていた青年は両手を上げるとにっこりと笑った。この状況とは不釣り合いなほど能天気な顔で。 殺気すらない相手にたじろぐなんて初めてだった。 見詰め合ったままで後ずさりすると、足元に先ほどの子犬が纏わりついてきた。 一瞬意識をそちらに向けた隙に間合いを詰められて腕を掴まれる。 「オレもファミリーの反対を押し切ってここまで来てるんだ。邪魔はさせないよ。」 ファミリーという単語に腹の底で盛大に舌打ちして、掴まれた腕を振り払おうともう片方の手で懐の銃を取り出すもすぐさま叩き落された。 ガツン!と音を立てて落ちた拳銃を足で蹴ってすぐそばの建物の壁に当てると跳ね返ったそれを再び手にしようと待ち構える。 もう少しで手の中に入るといったところで、目の前の男に阻止された。 後ろを振り返ることなく無造作に伸ばしたように見える動きで、拳銃を後ろ手に掴むとそれをオレのこめかみに突きつける。 カチャッ冷たい音がした。 己の迂闊さに笑いたくなる。 目を瞑り、死への恐怖を押し込めて最後の時を待っていれば、ドスッという音とともに腹に衝撃が走り胃液を戻して意識が混濁していった。 思うように動かない身体を抱き止めた腕の感触だけがいつまでも残っていた。 . |