庭 | ナノ

曇り空の向こうは

 陽の温かさも、月の輝きも、暗く陰った鈍い色に覆われて、色味を確かめることさえ適わない。全てが静寂と共に濡れていく中で、心臓の位置に触れてみると、音もなく、動くこともなく、それが事実を告げていた。蘇った、一定のリズムを刻む電子音も、喉元を貫き、呼吸を繰り返す管も、輸血パックから流れていく、正体の分からない血液も、横たわったまま動くことのない体も、嘘を吐くことはない。

『お兄ちゃん、お願い……』

 起きて、生きていくことを望まれても、叶ってしまうことすらないのだ。同時に、あっけなく、笑ってしまう程に虚しく、死を迎えられることもないのだろう。
 市閑要哉は、何も、誰にも、言わなかった。


 □□□


 四階の八号室を叩くと、出てきた妹が不快そうな目を向けてくる。当たり前だと、自負の笑いを漏らさずにはいられない。一度目はガードレールに押し付けて首を絞め、二度目は対面するなり包丁を投げつけたのだから、好意で返ってくる訳がないのだ。扉が閉まりそうになるのを視界の隅で捉え、咄嗟に足を挟み込みながら、端を片手で押さえつける。嫌悪の視線を向けられ、すっかり嫌われたものだと、呑気な感想を抱いた。記憶の中の彼女と目の前にいる彼女では、恰好や態度に対して、違和感にも似た差を感じる。記憶の有無の残酷さを考えたが、もう一つ、他人行儀の彼女の態度が何より腑に落ちない。自分の知る妹は、どこに行ってしまったのだろう。彼女は深い溜息と共に口を開いた。

「歩く、害悪と迷惑の塊なまずさん、嫌がっている人の部屋に来て何の用? 妨害することしか脳にないのなら、口を開く価値もないから、反射的に蹴り飛ばしてしまう前に立ち去ってね」

 随分と生意気な言葉遣いで、いっそ見事だと言いたくなる。心の靄に誘われて、刃をその白肌に滑らせてしまいたくなったが、タイミングは見計らうべきだと、欲望を呑み込んだ。何の用かと問われても、用と呼べるものは何もない。

「……なまずは名前じゃない、俺は市閑要哉……、いや、七実要哉って言った方が伝わるか」

 口をついて出たそれは、情けない程に間抜けなものだった。誤魔化すように口を噤み、逃げるように、時間をかけて瞬きを一つ行うと、妹の戸惑い顔と対面した。どうしてそのような反応をするのかと、こちらまで戸惑いを抱いてしまう。奇妙な沈黙を感じ、居心地の悪さを感じていると、妹が言葉を漏らした。

「市閑、七実……どうして、きみがそれを名乗るんだ」

 どうして、と言われても。

「それが俺の本名だからだよ」

 妹は、目を点にして、言葉を失ったように口を開閉させるのみ。共通点の多い容姿にすら気持ち悪いと罵り、奇妙な目を向け、距離を取っていたというのに、だ。死角を失くすことすら忘れた彼女は、殺そうと思えばいつでも殺せるが、自身は何もせず、ただ次の言葉を待った。ヘデラなんとかの鼻歌が遠くから聞こえたかと思えば、ひゅう、と見ちゃった的な反応を残して去っていく。入れ違うように、階段を下りてくる音が聞こえてきたかと思えば、おや、と鷺ノ宮櫂の声を拾った。続いて、階段を上る複数の音がして、鉢合わせしたのか、あれ、と花表はやての声がする。一瞬だけ目を向けると、妹の部屋の窓が開いていたのか、二人の後ろでノアがこちらを覗いていた。視線を戻せば、妹が不快そうな顔をしていて、少し不味い気がする。何してんの、とガスマスクでもつけているような潜った声が聞こえ、また誰かが階段を下りてきた。中に入れてもらうべきかと思案していれば、あ、と蔵未とやらまで登場する。散れと言わんばかりに、もう一度視線を向けると、蔵未が空気を読んだのか、全員に退散を促していた。一部にだけ態度が厳しかったのは、何故だろう。
 再び静寂が訪れた所で、お互いに視線を合わせた。ようやく、妹は言葉を発する。

「わたしは、睦ましい人と書いて、睦人。でも……でも、わたしは『市閑むつと』だし、『七実むつと』でもあった気がする。どうして、きみが……」

 それを聞いた瞬間、違和感が形になったような、しかし、掴めず、すり抜けるような焦燥を抱いた。妹は七実家に残り、自身だけが市閑に変わった筈だ。睦ましい人なんて、漢字が正式な名になっていた覚えもない。誰だ、とこちらまで言いたくなり、しっくりこないまま、舌が口の中を転がり続けた。疑問を口にして、会いたくて堪らなかった妹を否定したくなかったのかもしれない。彼女の姿すら消してしまいそうで、認めたくなかった。

「お前が、忘れてるだけだろ。その内思い出す、俺が、兄だって」
「きみが、兄、……?」

 誤魔化すように、言葉を紡いだ。目の前が真っ暗になったように、現実が遠く感じる。人工的なリズムが鼓動を打っているようで、何を今更と笑い捨てた。未だ不思議そうな彼女に背を向け、逃げるように部屋を目指す。どうやら、まだ、当分向き合えそうにない。
 夜空を見に行けば、数多の星や、眩しく降り注ぐ月の光が、隙間を埋めてくれるだろうか。

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