庭 | ナノ

孤独を目指した夜

 空気を吸うと、気管が世界を拒絶して、詰まるような感覚を与えてくる。
 堪らず吐き出すと、世界に縛り付けられたような、動きにくさを感じた。
 この世界も生きにくいのか、と市閑要哉は思考する。学生服の上着や、なまずのマフラーは、寝苦しくなるからと床に脱ぎ捨てたままだ。睡魔はいつも通り中々訪れず、月が頭上を越えた辺りで、夜空で暇を潰すか、と身体を起こした。隣で目を伏せる赤毛の男に、戸惑い混じりの呆れた視線を向けてから、彼を乗り越えて外に出たのだ。見逃してくれるなら、何も言わないでおこうと。
 覚束ない瞬きを繰り返しながら、一歩、また一歩と、静寂の空間を進む。階段に足を運び、朧げな思考を滲ませながら、少しずつ上を目指していく。市閑の部屋がある移住エリア五の階から、目的の展望台まで結構な距離があるものの、構わないとでも言いたげに、突き動かされるように身体を向かわせる。とにかく息苦しい空間から逃れたくて、仕方がない。すぐ辿り着ける一階のホールに見向きもしないのは、何となく森が苦手ということもあるだろう。嫌いという訳ではないが、中々帰れなくなる数々の出来事が、忘れると言っても身体に染み込んでいる。厄介事に、気は進まないものだ。
 一つ、また一つと階を重ねても、珍しく何も聞こえてこない。眠っている者、部屋で各々の時を過ごしている者、探索に行っている者しかいないということか。例外と言えば、市閑の部屋に下の住人がいるということだろう。だが、今の市閑にとってはこの状況がささやかな安堵に変わるだけであり、それでも、個々の状況を考えられるような余裕は持てなかった。
 市閑は梯子に手をかけ、上っていく。力のない指先で細い鉄を捉え、弱弱しく足をかける。下に広がる闇が死の誘惑を囁きかけているようで、今にも乗せられてしまいそうだ。実際、動きを止め、闇に視線を向けた市閑は、心音や呼吸音の存在すら忘れる程に見入った。重力に抗うのをやめるだけで、傾いた身体は地面に吸い込まれ、運悪く頭を打ち、今度こそ終わりを迎えることができるかもしれない。例え無理でも、打ち付けられた身体が悲鳴を上げ、動くことすらままならない状況に陥る可能性もある。今は地面と距離が近くても、五階分はありそうな梯子だ、一番高い位置で実行すれば叶えられるのではないか――
 だが、市閑は実行することなく到達し、最後の青い扉に寄り添った。死んでみたとしても、気付けば何事もなく生きているという事実は、何度も実行したおかげで理解している。虚しさを味わうより、縋りつくように月を見に行って、纏わりつく苦しさから逃れたいと願っていたのだ。
 けれど、この先は別の世界が広がっているのではないかと、伸ばした手が震えた。あの日初めて見た景色も、遠くの光を宿す夜空も、消えてしまっているのではないか。六等星のような淡い瞳を、儚く伏せて闇と対面する。停電した家のような暗さの中、一瞬、散る赤の正体を自覚した時のような痛みを疼かせ、市閑は拒絶するように目を見開いた。
 目の前には『今』が音もなく存在している。ここは星見の塔の最上層で、一枚隔てた向こうには夜空が広がっているだろう。
 扉を開けると、冷静な風が頬を撫でた。市閑は展望台に身を乗り出して立ち上がり、求めていた空を見上げる。覆い尽くす黒は、沢山の小さな輝きを零していた。沈黙した三日月が、欠けた光で世界を照らしている。宙に存在するたった一つのその存在は、実に様々な世界を照らしているのだと何故か理解できて、市閑は何よりも暗い瞳を薄く揺らがせた。市閑要哉という存在は実に小さくて、空に比べたら下らない些細なものだと思い知り、彼は嘆くように呼吸を吐いた。心の騒めきを否定されたくないと、願うように拳を握った所で、耐え切れなくなったように、膝から下が崩れ落ちる。そのまま横たわり、鈍い痛みと冷たい表面を味わうように目を閉じた。まるで始まりのような、しかし、時が過ぎるだけの空間に、市閑は体を転がして空と対面することしかできない。だが、焦燥感はあるものの、月や星が嫌いな訳ではなかった。人の集いより落ち着くことができて、暗い空間よりも安心する。この世界も、だ。思い出してくる記憶のどこにも存在しない異世界は、元の世界よりも物騒な気はするが、不思議と敵がいなかったように思える。では、何が嫌いなのかと言われると、正しくは生が嫌いなのだろう。それを自覚した市閑は、再び身を転がして身体を丸め、記憶を辿っていった。
 小さく見えようが、市閑にとっては蔑ろにできないものがいくつもある。生きなければいけないのなら、せめて、悲鳴を上げるように過ごしていたい。そう思った彼は、何事もないように身体を起こし、迷わずに塔の外側へ足を進めた。
 地を蹴り、躊躇もなく星空へ飛び出す。幸せそうに、泣きそうに笑みを浮かべ、自ら虚しさの元に落下していった。逃す流れ星のように、星見の塔の窓がいくつも去っていく。世界や、部屋にいる存在達に軽蔑の目を向けた所で、部屋の窓と窓を繋ぐ一つの梯子を捉えた。

(あ)

 身体は地面に叩き付けられる。


 □□□


 レベル三のパスカードをカードリーダーに通し、市閑が自室の扉を開けると、身に覚えのない明かりが暗闇に漏れた。その眩しさに身体を強張らせたが、思い当たる節があることに気付き、何事もなかったかのように中へ入る。一人の男がベッドに座り込み、壊れたテープのような鼻歌を披露しながら、感傷に浸りたくなるような赤い髪を上下に揺らし、無のような色の瞳をずれたテンポで瞬かせていた。音程より迎えられたという状況が気になった市閑は、身を翻してやろうかと思案したものの、男が向けてきたなまずのマフラーを見て思い直す。我ながらふざけたデザインだと思うが、殺せなかった妹が身に付けていたマフラーと、意識を手放す直前に見たなまずのことを考えると、蔑ろにはできない。否、それを手放せなかったのは、記憶を失った状態で星見の塔に来た時からだ。唯一手放してはいけない物のような気がして、堪らなかった。
 いつものように明るく笑いかけてくる男に、市閑は訝しげな目を向ける。

「おかえりい」
「……自室帰れば」

 親指で窓を差すと、折角待っていたのに、と不満そうな声を返された。あれはいつの日だっただろうか、市閑が一人部屋の中で寛いでいると、突然窓から妙な音が聴こえたのだ。鉄に鉄が打ち付けられたような喧しさに、市閑が不快そうな視線を向けると、そこには梯子があった。何処から持ち込まれたのかは分からないが、男が軽快に顔を出したのを見た瞬間、反射的に梯子ごと落としかけたのは確かだ。様々な抵抗を試みたものの、梯子が固定される様を見た辺りで諦めた。最近も「お泊まり会いえーい」と突然窓から叫ばれ、体力や精神を無駄に消耗したばかりだ。元々他者との接触に興味のない市閑が、そうして鉄砲玉の如く絡みを受けている内に、男が「グリム」という名前なのだといつの間にか知っていた。

「そこ座られたら寝れないから、どいて」
「要哉くん」

 名前を呼ばれたことが、どちらにせよ君は眠れないだろ、と言われているようで、市閑は拒絶するように目を細める。

「何だよ」
「そんなつれない顔しないでよ。一緒に寝ようよ」

 俊敏な動きを披露したグリムが、させるかと言わんばかりに部屋の電気を消したところで、市閑は諦めたような顔でベッドに飛び込む。最近は、諦めた方が早いと悟ることの方が多いのだ。

(無駄なのに、とか思えばいいのに)

 グリムが再びベッドに侵入してくると、市閑は赤い髪から目を逸らした。何も言わずに目を閉じたが、恐らくどちらも気付いている。塔が静まり返るような時間帯に、お互いが意識を明確にしているぐらいだ、このまま寝ようとしても無駄に終わるだろう。隣に誰かがいても、いなくても、市閑は眠れないのだ。
 他の状態も、グリムは気付いているのかもしれない。市閑は分かりやすく体に表れる人間だが、最近はそれがより色濃く出ていた。睡眠不足の目元は相変わらずだが、身体は更に細り、元々綺麗に浮かび上がっていた骨が、今では益々分かりやすくなっている。その足取りは、消耗を誤魔化すように地を踏みしめていることが多く、気を抜けば倒れてしまいそうだ。態度だけは変わらないか、何故かいつもより接触を許す面があるものの、内側は来た当時より深く閉ざしていた。思い出したくもない記憶を思い出したおかげで、日々迷子のように身体を消耗しているのだが、市閑が生きることに興味を抱くということは無いに等しい。その心底は、何てことのないふりをしながら、膝を抱えて怯えているのだ。
 囁くように、グリムから声をかけられる。

「上で何をしていたの」

 薄く目を開いた市閑は、少し考え、珍しく素直に答えた。

「月を見に行ってた」

 グリムの反応が一瞬遅れたのは、市閑の気のせいだろうか。

「月?窓から見ても良かったのに?」
「夜空に囲まれて、寝転ぶのは、少し、楽だったから……」

 これ以上は、と市閑は口を閉ざす。聞かせたくなかったというよりは、吐き出したくなかったのだ。
 要哉くん、と名前を呼ばれたが、訊ねないでとでも言うように、眠るように瞼も下ろす。声が聞こえないふりをして、わざとらしいと分かっていながらも、寝返りを打つように背を向けた。
 嗚呼、夜空の情景を思い出しながら、今宵も眠れない時を過ごそうか。

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