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それでも明日を生きていく

普段決して立ち入る事の無いノナタワーの地下。一向に終わりの見えない問題ばかりが高く積まれていく日々の中で一際大きな騒動と共にぱたりと姿を消したのは、己の飼い犬だった。動ける範囲内ギリギリまで進められた捜査も一係からは取り上げられ気付けば真相も解らぬまま捜査は打ち切りへ向かう。

縢が消息不明のまま失踪と言う形で片付けられたという報告は一係に……いや、狡噛にとってそれは決定打になりうる程に衝撃的で大きな力を持つものだった。誰一人として縢がこの檻から逃げ出したなどと思ってはいない。それでも頷くしか無い世界がある。理不尽を当たり前だと思え。そうやってもう十数年と生きて来た。
そんな酷く狭い世界を狡噛も知っているはずなのに、いつからか歩む道を変えて背中ばかり遠くなっていく奴はもう納得出来ずに胸の内をぐるぐると回り続けるそのどろりとした熱を吐き出すことを選ぶしかなかったのか。珍しく感情的になった姿を見れば三年前もそうだったなと空に舞う煙を思い出す。


あのときだって、そうだった。浮かんでは消えていく白い吐息とデバイス越しに聞こえる荒んだ声。そうして消えた部下は今も尚鮮明に思い返せる程に、原型を失い痛々しく転がる肉の塊と化していた。相棒は、気がつけば手の届かぬ所まで転がり落ちていた。
縢が消えたと聞いた時まるで胃が誰かの手に握りつぶされているかのような感覚に襲われたのは、そんな三年前の記憶が生々しく浮かび再生されたからだろう。この事件はあの時と同じだ。もう、嫌な予感どころか最悪の事態があまりにも簡単に想像出来てしまう。

逃げ出すような奴じゃない。それは公安の人間の中で言えば誰よりも俺がよく知っているはずだった。関係を振り返ればそんな偉そうなことが言えるような関係でも無かったように思えるがそれでも、確実に、他の人間より傍にいたのは確かだ。
特別な情があったわけではない。飼い主と、猟犬。それだけだ。ただそんな歪み切った世界の中でも揺るぐわけもない信頼というものは出来上がっていたと思う。牙を剥いていた犬が、時間をかけ気付けば気が向いた時に尻尾を振って近づいてくるくらいには、薄っぺらい関係ではなかったと言えよう。


己の正義から目を背けただただこの現代社会においての正義を見つめ、知らずと己の首を絞め続ける俺に最初こそ挑発的な態度ばかりとって適当なことばかり言っていた彼奴は……ある日、まるで俺の身を案じるような瞳で覗き込んで来た。いつからか、なんて知らない。ただ、ガラス越しに出会ったその日から少しずつ確実に溶かされた彼奴と俺との間に立ちはだかっていた壁はもうほとんど壁の意味をなさぬ程に壊れていたというのに。


「ギノさん、飯食ってくっしょ?」

「ああ」


そんな会話を一体どれほど重ねただろう。お互いに愛なんて囁いたことも抱いたこともなかったはずだ。ただただ猟犬は気付けば愛玩犬へとかわりゆく。孤独と不信感ばかりを募らせ抱えて生きてきた彼奴はそれでも尚前を向いていた。随分と狭い世界の中でひたむきに懸命に生きていた。それが俺には酷く眩しくて、彼奴よりもずっと広い世界で生きているはずの自分の方がよっぽど何かに捕われているようだったのだ。
飄々としているくせに、時折ふと何かへの恐怖を滲ませるその瞳を守りたいと思ったのはいつからだろう。当たり前のように彼奴は俺の見えるところにいて、この手が離れることなんて想像もしていなかった。否、出来たはずなのにしようとしなかった。相棒が転がり落ちた道を自分も通るのかと思うと恐怖しか感じなかったのはきっと、俺がこの世界の秩序を正義と信じる事でしか生きてくることが出来なかったからだろう。


「ギノさん、」


耳にこびりついて離れない彼奴が俺を呼ぶその声も、いつかきっと俺の中から消えてしまう。記憶は残酷だ。どれだけ忘れぬようにと強く願っても、いつしか声も笑顔も過ごした時間さえも残らず散る。
拳を叩き付けたその壁はひたすらに冷たく、堅い音を立てる。揺るぎもしない、この壁の向こうで一体何があったのだろうか。


「飼い主の許可無く消える馬鹿が何処に居る……縢」


本当は心の奥底で解っている。もう、この世界に居ないことを。どれだけ名前を呼んでも、どれだけ探し歩いても、どれだけ夜空に願っても、もう二度と彼奴の姿を見ることはないのだろう。俺の言葉も想いも伝わることはないのだろう。
伸ばした手が掴むものは何も無いのだ。どこにも居ない。彼奴が最期に見た景色さえきっと俺は見ることなくこの世界を生きていく。


もしも、こんな出会いじゃなかったら。もしも、こんな関係じゃなかったら。もしも、こんな世界じゃなかったら……少しは、お前と俺との世界だって変わっていたかもしれないのにな。



嗚呼、気付けば俺はこの想いを愛と呼びたかったのかもしれない。



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