きっとそれは気紛れってやつ 「いやそんな睨まれても、」 俺のせいじゃないし。なんて言ったところでこの人の不機嫌が改善されるわけもなく、この間から新人に振り回され続けて苦労が絶えないこの人はまた少し痩せたような気がする。眉間に深く刻まれる皺が消えることはない。その眼鏡の奥で稀に緩められる瞳がどれ程綺麗なものか、見せびらかしてやりたいような、自分だけの秘密にしておきたいような、何とも複雑で少しばかり甘いものがじわりじわりと心を満たしてゆく。 もちろん心配していないわけではない。迅速に手当されたそれを見て、少しばかり胸が痛んだのも事実である。ここのところ兎に角仕事を詰め込んで朝早くから夜遅くまでぶっ続けで働き続けているのを見ている俺としては、こんな時くらい身代わりにでもなれりゃ良かったのに、と思わなくもない。まあ、そんな柄でもないけど。 大きな怪我じゃなくて良かった。命に関わらなくて良かった。そんな甘っちょろい安心感に縋っていることがバレたらきっと更に深く刻まれるのは眉間の皺であろう。心配するのは得意ではないし、相手もまた心配されることに心地よさを感じるタイプではない。どこまでも歪なこの距離はきっとこの先も縮まる事は無いのだろう。そして、この距離以上を望む事も、きっと無いのだ。 「先生、ちょっとお願いがあるんだけど」 公安局に戻ってから向かったのは先生んとこ。俺のお願いに少し呆れたような顔をした後「私たちみたいに素直になったらいいのよ」なんて小言と一緒に叶えられたそれは今日も変わらず夜中までデスクワークに追われているその人の元へ。 「ギノさん、一段落しそう?もーすぐ日付変わるんだけど。今日宿直じゃないっしょ?」 「今更帰るくらいならこのまま泊まった方が効率的だ。もうすぐ片付く、お前はさっさと戻れ」 「いやあのねギノさん。仮にも恋人がわざわざ着替えてオフィスまで来てるんすよー?」 一瞬も書類から目を離さないってどーなの、それ。ちょっと寂しいだろ、ついでにもやっとするだろ。ドン、と音を立ててギノさんのデスクに乗せたのは先生んとこから拝借してきた簡易救急箱。一瞬動きを止めて、怪訝な顔をしてこちらを見上げるその人から書類を奪う。ほら、こんなん明日やったって間に合うじゃん。どんだけ仕事してたいんだよ。 「で、わざわざ仕事の邪魔しに来たのか」 「んなわけないっしょ。ほら、ギノさんおて」 「ドミネーターを持ってくる。そこを動くな、痛いのは一瞬だけだ」 「ちょ、冗談!」 さっきまでこちらに見向きもしなかったくせに、こういうときばっか反応早いんだからたち悪ぃな、と思う。ギノさん、そんなんだから色相濁るんじゃねーの?と茶化したい気持ちで溢れるけれど、そんなこと言ったらそれこそ自分の身が危険すぎるのでぐっと堪えてデスクの前から動こうとしないその人に仕方なく椅子を引き摺って向き合った。左手に触れれば眉間に刻まれた皺が深くなるから、やはり痛みはとれていないのだろう。そういう我慢ばっか得意なのもどうなんだ。 「包帯取り替えてあげようと思ってさ」 「なんだ急に。後でちゃんと取り替える、大体お前こんなことする暇があるなら報告書を…」 「はいはい、分かってますよー。俺がやりてーの。いいじゃんこんくらい」 怪我の手当なんて自分相手にどれほど重ねてきたことか。それでも、一応は好意を寄せている相手の怪我なのだ。それなりに慎重にもなる。相変わらず刻まれたままの眉間の皺に少しばかり緊張しながらするりと包帯を解けば、同じ男のものだとは思えない程白くて細くて、でも少し筋張っていて綺麗だったはずの手。それが、酷く爛れて思っていた以上に深い傷になっている。皮膚が浮いているところだってある。本当に、どうして何も言ってくれないのだろう。 「……痛い?」 「痛くないように見えるのか」 「ですよね」 冗談だ、そう言って笑ったその人の声がほんの少し強張っているように聞こえる。痛々しくて仕方が無い、見ている俺が思わず顔を歪めてしまう程に。先生に再三受けた注意を思い出しながらその手に薬品をのせて、これでもかってくらい丁寧に包帯を巻いていく。隠れていくその手にどうしようもない想いだけがぐるぐるとまわり、つい口から出た音はただの俺のエゴだ。 「俺だったら良かったっすね」 「は?」 怒るに決まっている。いや、呆れられるかもしれない。解っていても音になったのはきっと、潜在犯を俺自身が酷く見下しているからだろう。 自分が適当に楽しく生きていければいいし、大した死に様なんて期待していない。ろくな人生じゃなくていい。けれど、この人はどうだろうか。俺よりずっと、この世界には必要な人で。ああいや、でもきっと、やっぱりそういうんじゃない。違うんだ、だってどんなに言葉を並べても薄っぺらくしかならない。俺が言いたいのは、だから、つまり、 「あー、そういうことじゃなくて」 「縢、」 「ギノさん誤解!怒らせようと思って言ったわけじゃないんだって!」 「まだ何も言ってないだろう」 好きなんだ。 なんて、言えたらどんなにいいだろう。守りたいと思った。守れなかった自分に嫌気がさした。痛みに歪んだその綺麗な顔が胸に突き刺さる。好きだから、好きな人だから、怪我なんかしてほしくない。そんな甘ったるくて胸焼けしそうな想いをこの人にどうして伝えられる?無理に決まっている。この人にとって、それは邪魔にしかならないなんてことはもうずっと前から俺自身痛い程よく解っていた事だというのに。 「縢」 もう一度呼ばれた名前が優しさを含んでいるような気がして、ふと絡んだ視線の先の瞳はあたたかなものだった。思わずぽかんとする俺に少しばかり困ったように笑ったその人はたった今俺が必死こいて包帯を巻いた手で俺の目尻を撫でる。一瞬鼻を掠めた薬品の匂いに思わず眉間に皺が寄ったけれど、珍し過ぎるスキンシップに相変わらず俺はぽかんとしたままだ。 「…え、っと…ギノさん?」 「どうしてお前が泣きそうな顔をする?」 「はっ!?」 「俺は飼い犬を盾にするような愚かな飼い主ではないつもりだが」 すっと細められた瞳と、うっすら弧を描いた綺麗な唇にたまらなくなって、ついでにギノさんが柄にもないこと言うから…うっかり鼻の奥がツンとした。なんだよ、大人ってずりい。 「ギノさんが、勝手に怪我なんかすっからいけないんすよ」 「ああ、そうだな」 「っなんでそこ認めんの、いつもみたいに怒んないんすか?」 「素直じゃない飼い犬に絆されてやってるんだろうが」 今度こそ綺麗に笑ったその人の少し冷たい唇が俺の目尻に触れたのと、俺が思わず救急箱をひっくり返したのはほぼ同時。結果的に怒鳴られるはめにはなったけど、その手が少し荒く俺の髪をかき混ぜたから俺の機嫌は右肩上がりもいいとこだ。ああ、本当に……俺はどうかしてしまったのかもしれない。 |