掬ったてのひら 初めて会ったのは硝子越しだった。最初話が来たときはふざけんなよって思ってた。そういう奴らがいることを知らなかったわけじゃない。ただ、犬として使われる事に酷く腹が立った。……けど、外に出る方法はそれしかない。それも俺自身よく分かっていた。だから頷いた、それだけだった。 まるで実験台にでもなったかのような日々。人間として扱われた試しなんてなかった。狭い檻に閉じ込められて、何をすることも許されずにただただ死ぬまで生かされる。そんな今とおさらば出来るなら、それでいい。外に出てしまえばきっと、今よりは確実にこの世界を自分の瞳で見る事が出来る。そんな捻くれた俺に手を差し伸べたのは、シビュラの導いた結果だとしても、それでも、迎えにきた宜野座伸元という男に他ならない。俺にとっては、この人の手をとってから世界が変わったようなものである。 シビュラが正義だと疑わない、潜在犯を憎む人。俺とは正反対に生きる人だと思った。そして、きっとそれは事実だ。その人の表面上は、の話。知れば知る程、潜在犯を憎んでいるというよりもその事実に苦しんでいるように見えたのは俺の気のせいでも、願望でもないと思う。 その人の過去を知ったのは本当に些細な出来事で、その人自身から聞いたわけではない。征陸のとっつぁんとコウちゃんと酒でも飲みながらだったような。なんとなく、本当になんとなく、この人はきっとシビュラを正義としなければ生きて来れなかったんだろうな、なんて考えている自分がいた。 いつでも眉間に刻まれている皺に、引くぐらい悪い顔色。高い背してるくせに今にも折れてしまいそうなその後ろ姿がどうしてか俺は気になって気になって、そうやって追いかけ続けて1年と少し。 「ギノさん、ちゃんと食ってます?」 少し大きな事件の捜査中。酷く顔色の悪い監視官様はまたこの事件で肉が落ちたんじゃないだろうか。ふらりと、簡単に傾いてしまいそうな俺よりでかい身体を案じて声をかける。返って来る言葉は相変わらず冷たいものだけれど。 「心配するくらいなら報告書くらいまともに作れ」 「いやそれはそれ、これはこれっしょ」 「お前がゴミみたいな報告書ばかり寄越すせいで俺は帰れないんだがな」 じゃあお詫びに、そう言って気乗りしないというかどうしたって一線引こうとするこの人を半ば強引に宿舎に連れ込んだのは、たぶん、既にこの人への想いが俺の中で色付いていたからだ。くそだと思ってた。監視官なんて、平和にのほほんと暮らしてる奴らなんて、許せなかった。それなのに、俺を迎えにきてくれた。そんなちっぽけな事を俺は酷く大切にしてしまっている。 だから、複雑そうな顔をしてたこの人が、俺の作った飯を食った瞬間少しだけ表情を緩ませたのが驚く程嬉しかった。 そして、また1年。月日は流れる。いつからか仕事が一段落して声をかければ俺の作る飯を食べにきてくれるようになって、なんとなく一緒にいる時間が本当に少しだけど増えて、初めてこの人が小さく笑う瞬間を見た時たまらなくなって、酒の勢いだけで好きだなんだとネタばらししたら困ったような笑みで嗚呼だかなんだか。 「……ギノさーん」 「何だ」 「俺すっげー暇なんすけど」 「そうか」 「いやそうかじゃなくて…なーんで久しぶりの休暇だってのに仕事なんかしてんすか」 「何度も言うがな、お前がクソみたいな報告書ばっかり出すから俺が休日出勤する羽目になるんだろうが」 付き合ってるのかと聞かれると、頷き難い。事件が片付いて暇になれば休暇だってのにくそ真面目に仕事しに来てるこの人を捕まえて、勿論仕方なく捕まってくれて、こうやってだらだら過ごしたりもする。だからたぶん、端からみたら付き合ってるって言ったって間違っては無いのかもしれない。 だけど、あの日以来俺はこの人に好きだとは言ってないし、この人もこの人で別に何も言って来ない。たぶん、お互いにどうしていいかわからないのだ。愛されたことなんて無い俺に、どう人を愛せと言うのか。愛を裏切られたこの人に、どう愛を大切にしろというのか。たぶん、これでいい。俺はこの人のことがきっと好きだし、この人も俺のことがたぶん好き。憎くて仕方が無いはずの潜在犯とこうやって一緒に居てくれんだから、少しの自惚れは許されると思ったっていいだろう。 「ねー、ギノさん、俺暇ー」 じゃあ半分分けてやろうか?そう言って書類を一山とろうとするそのほっそい手を慌てて止める。仕事はいらない、正直デスクワークは苦手だ。ドミネーターを引っさげて外を走り回る方がよっぽど性に合っている。ああ、だから色相が濁んのか。 ぼんやりと、俺の部屋のソファでひたすら仕事をするその人を眺めながら向かい側で思考を巡らせて遂に睡魔が襲ってきた頃。俺よりずっと低い声で呼ばれる名前。 「おい、ソファで寝るな」 「んー」 ったく、だかなんだか聞こえて、それでもとうとう俺は睡魔に勝てずに心の中でこっそり仕事増やしてごめんねなんて謝ってみたりしながら微睡みの奥底へと落ちて行く。まるで壊れ物を扱うかのようにそっと、柔く額に触れたてのひらはきっと夢なんかじゃないはず。 掬ってくれてありがと、いつかそんな風に素直にこの人に言えたらいいと夢の中で誓ったある日の話。 |