春が僕らに咲った日 初めて彼女の首に牙を立てたあの日のことも、嫉妬と愛しさとで一杯になって牙を立てたあの日のことも、もう随分と懐かしく感じるようになった頃。春休みも後半に入ったその日、オレは酷く嫌な夢を見て飛び起きた。シャワーを浴びて着替える頃には内容のほとんどが記憶から抜け落ちてしまっていたものの、目の前に広がる血溜りの映像だけは脳にこびりついて離れない。今日は図書館へ出向いて彼女と勉強をする予定だというのに随分と縁起が悪い。 そんな最悪の寝起きとは裏腹に、外へ出れば幾分か暖かくなってきた風が頬を撫でて去っていく。桜の木々も随分と色付いてきた。穏やかな空に深呼吸をひとつ落とし、悪夢を振り払うように彼女との待ち合わせへと急ぐ。今日は彼女の方が早かったようで、声をかければその顔が分かり易くぱっと明るくなるものだから小さく笑って図書館へ。雑談を混ぜながらも資料や本を物色し、窓際の席へと並んで腰掛けたのを合図にただただ静かにシャーペンを走らせる。時折左側にいる彼女の横顔盗み見てはどうしようもなく愛しさがこみ上げて手が止まるのだが、集中しきっている彼女は気付きもしない。そういう隙があるのはオレと居る時に限って言えばありがたいものである。あるのだが……これが素だと思うとオレの知らない所で余計な虫がついてもおかしくはなさそうだ。何度言って聞かせても彼女がオレの心配をしっかりと理解してくれる日はこないのだろう。 自分のやるべきことを終え、そっと彼女の姿を見守り始めて数十分。ようやくオレの視線に気付いた彼女は終わったなら声をかけてくれればよかったのに、と拗ねた声で帰り支度を進めるもののその表情は随分とやわらかく緩んでいる。そういうところが堪らないのだということも、恐らく本人は全くわかっていないんだろうな。 「……赤司くん、大丈夫?」 そんな彼女の声ではっとした。ふにゃりと笑った彼女を見て席を立ち図書館を出て、彼女の手を取ったあたりだ。当たり前のように拾ったその小さな手を包んでやったところからすっかりと忘れていた悪夢の絵が頭をちらついて、その後どうやって彼女と歩いてきたのかがわからない。つい先ほどまで、何の違和感もなく彼女と話をしていたはずだ。それなのに、唐突に呼び起こされる血溜まりの記憶。ただぽたぽたと静かな音をたてて地面へ落ちては波打ちたまっていくその絵があまりにも生々しく思考を浸食していく。 視界の端が暗闇にかわっていき、彼女の声も反響する。思わず眉間に力が入ったオレを見て彼女が慌てる気配。包んだはずの小さな手がオレの手首を掴み、彼女に引っ張られるようにして公園のベンチに座らせられても尚、オレの視界が晴れることはなかった。 「顔、真っ青だよ。お水飲む?」 「いや……すぐに治まる」 まさか彼女の前で、こんな姿を晒す羽目になるとは思わなかった。心配で溢れている彼女の表情は、オレよりもよっぽど青ざめているような気がする。そんな彼女の姿に思わず笑みがこぼれるが、そんな余裕もその時だけ。 「大丈夫だから、隣に座っててくれ」 時間が経過するほどに、屈んだまま覗き込まれることに居心地の悪さを感じるようになってきた。先ほどからずっと、心配そうな顔をする彼女のその白い首筋にばかり目がいくのだから無理もないだろう。その感覚さえ忘れかけていたというのに、背中を駆け抜けていく寒気は初めて彼女の首に牙を立てたときのものと酷似している。忘れろと、思い出すなと、必死で言い聞かせれば言い聞かせるだけ視界が濁り不快感が迫り上がってくる。意識していなければ呼吸さえ出来ないほどに、じわりじわりと浸食していくその黒い欲が理性を奪っていくようでただただ苛立ちばかりが募る。 「やっぱり、お水買ってくるよ」 「いい。本当に、大したことじゃない」 「でも、どんどん顔色悪くなってるし……それか、タクシー探す?」 その苛立ちが表情に出てしまったのだろう。彼女の前でだけは、揺らぐ事なくそこに居てやりたいと強く思うのに体は全く言う事を聞かない。余計に心配の色を強くし、おろおろとし始める彼女にいいから座っていろと語気を強めたところで彼女の動きが止まってしまい、どこか遠くでやってしまったなと自嘲気味に笑う自分がいる。元々優しい人間でも気の長い人間でもないのだ。余裕がなくなった時につい出てしまうこういうところがまだまだ弱味であると自覚しているというのに…… 「いや……悪い」 「赤司くんは、いつもそうだね」 何が、と聞くより先に隣に小さく座った彼女の膝にぽたりと雫が落ちる。 「わたしには、絶対に頼ってくれないし、絶対に心配させてもくれない」 それは酷く頼りない、小さな声だった。口元はゆるく弧を描いているのに、彼女の頬を伝うそれは紛れも無く涙で……彼女のそれは恐ろしいほどにオレを掻き乱してゆく。頼りにしていないわけではない。こんなにも気を許しているというのに、彼女にはまるで伝わっていないということだろうか。自分が守ってやりたいと願った女の前で、彷徨うその手を引いてやろうと誓った女の前で、人間にもバケモノにもなれない情けない姿を晒せとでも言うのか。この、オレが。そんなことが許されるとでも思っているのだろうか。許されるわけがない。そんな醜態を晒すわけにはいかない。そのために必死に蓋をしてきたんだ。 「わたしだって、赤司くんの力になりたいって思う事だってあるのに」 それが、例え血に狂っている姿だとしても、お前はそんなオレを望むのか。塞き止めてきたものを台無しにしてでも、そんなオレの姿を見たいと願うのか。 「オレにバケモノになれって言うのか」 「え?」 ほんの一瞬、意識が己の体を離れたような気がした。それはまるで、かつて勝利に囚われチームメイトを叩き潰した時のような感覚。そこに居るのは確かに自分であるはずなのに、オレはただ少し離れたところから外野のようにそれを見ていることしかできない。己の左目から色素が抜けて行く様に、先ほどまでとは全く別の寒気が背を駆け抜ける。 「そんなに力になりたいって言うなら……黙って僕に首を差し出せばいい」 ああ、駄目だ。その瞳に彼女を映してはならない。その手に彼女を触れさせてはならない。お前だけは、彼女の前に姿を現してはならないというのに……!どんなに声を荒げてもそれが音になることはなく、ただオレの焦燥感を見透かしたように、そんなオレを嘲笑うように、その顔が歪んだ笑みを深めていく。 「い、っ……!」 口の端から見えた鋭利なそれが、彼女の首筋へ易々と穴をあける。困惑でいっぱいだった彼女の表情に痛みに耐えるような色が混ざり、堅く閉じられたその瞼の端からまた流れ落ちていく涙を見てどくん、と己の心臓が嫌な音をたてた。今オレの身体を支配しているのは別人格だというのに、彼女の首筋から啜る血の味だけは生々しく共有される挙げ句それがどうしようもなく美味しく感じてしまうことに舌打ちをするもそれが表に出ることはない。 それは数分だったかもしれないし、僅か数秒だったのかもしれない。少しずつ蝕まれていく理性に比例するように、身体の感覚が戻ってくる。瞳の色素は戻り、恐らくあいつももう居ない。それなのに、オレの身体は動かなかった。こんな未来をオレは必死に視ないようにしていた。こんな瞬間がきてしまうことを、とっくに想定出来ていたはずだというのに。それでもそれを受け入れようとはしなかった。受け入れられるわけがなかった。彼女の血に執着してしまったら、もう戻れなくなる。夢と現実の狭間のようなあの日の出来事だけで終わらせてしまいたかった。彼女が試合を見にきたあの日、今度こそこれが最後だと誓ったはずだ。それでもオレは今、オレの意思で、欲望のままに、彼女を傷つけている。喉を通っていくその血液に寒気も、迫り上がる不快感も、苛立ちも、全て溶かされ満たされていく。身体が動いたのは、震える彼女の手が彼女の肩を掴んでいるオレの手に触れた時だった。 「……悪い」 先ほどの謝罪とは比べ物にならない程に、重く低く落ちたオレの声。ゆっくりと牙を抜いて離れたあとも彼女の手はオレの手に重なったまま。首筋には小さな血溜まりが二つ。その赤銅色が流れ落ちる気配はないが、穴が塞がる気配も当然ない。重ねられた彼女の手から逃げるように手を引けば、びくっと彼女の肩が揺れる。怯えさせた、今度こそ。彼女に与えた苦痛は牙を立てた瞬間の表情が充分すぎるほどに物語っている。隣にいるのは、嫌だろう。日が沈みきってしまう前に帰らせた方がいいと、そっと傍を離れようとしたオレに再び彼女の手が伸びる。最初に座らせられた時と同じように引かれたその力に驚いてぐっと踏ん張れば、動かないオレを涙の乾かない瞳に映してから立ち上がり、そのまま流れるようにその小さな身体がオレの胸にぶつかる。反射的に抱きとめた腕を慌てて緩めれば指先が白くなる程強くシャツを握り締められてしまった。 「…名前?」 「どうして、わたしの気持ちは聞いてくれないの?」 胸に押し付けられた額。彼女の表情を読み取ることは出来ないが、絞り出されるその声は涙で濡れている。 「わたしが、ただの人間だから……だから、」 "だから、離れていっちゃうの?" それは、今度こそオレの理性をぶち壊していく。落とす言葉を考える事も出来ずに、彼女の想いを想像することさえ出来ずに、オレはお前を傷つけたくないんだと声を荒げればようやく顔をあげた彼女の瞳からはぼろぼろと涙がこぼれていた。悲しい色で溢れるその瞳に思わず言葉に詰まる。そんな顔を、オレが、させている。その事実がオレの胸を締め上げる。それでも次の瞬間彼女が発した言葉は、オレが予想もしていなかった言葉だった。 「わたし、嫌だなんて言ったことないよ!」 「は、?」 「一回目のときも、二回目のときも、わたし傷つけられたなんて思ってない」 「待て、話が」 見えない、と続くはずだったオレの声は彼女の声に遮られる。 「弱みを見せてほしいわけじゃなくて、頼って欲しいわけでも、なくて……でも、赤司くんが無理してるのを見るのは、すごく辛いし悲しい」 次第に小さく消えていく彼女の声と同様に下がっていく視線に思わず眉を寄せた。オレは、どこから読み違えていたのだろうか。"ただの人間だから"、それじゃあまるで彼女が悪いみたいだ。異質なのはオレで、彼女が自分を責める必要など微塵もないというのに、オレはその彼女の想いにさえ気付けていなかったのか。彼女のことを想っていた、それは事実だ。けれどもっと大事なことを、必死になるあまり忘れていたのかもしれない。思い返せば、彼女は一度たりともオレを拒絶することはなかったし、初めて牙を立てたときも、その次も、その後何が変わるわけでもなかった。受け入れてくれることに、受け止めてくれることに、甘えては慣れていきそのうち狂っていく自分を恐れていたのはオレ自身であり彼女のなかではきっと最初から何も変わっていない。変わらずに隣にいてくれる彼女を、どうして信じ通せなかったのだろう。 「名前」 もう一度、彼女の名前を呼ぶ。今度はいつもの声で。そうしてやっと乾きはじめた首筋の血溜まりを軽く指先で撫でれば彼女は恐る恐る顔をあげる。けれど、オレはもう一度彼女に謝らなければならない。 「悪い、とても見せられる顔じゃない」 彼女の瞳がオレのそれと絡むその前に、彼女を抱き寄せて傷が残るその首筋に額を寄せた。きっと、情けない顔をしているから。 「前にも話したような気はする。それでも、もう一度聞いてほしい」 「うん」 「オレは、血を吸わなければ生きていけないわけじゃない」 今まで見て見ぬ振りをして生きてこれたように、オレにとって血液は食料とは違う。無かったところで、生死に関わるようなものではない。 「だが…オレは、たまにどうしようもなく……」 落とさなければならない言葉がある。オレが、伝えなければならない。そうは言っても余計なプライドが邪魔をして、彼女を抱き寄せる腕に思わず力が入る。それに気付いた彼女は、酷く優しい声で頷きながらその細い腕を動かして、まるで硝子細工にでも触れるかのように小さなてのひらでオレの背中を撫でる。それが酷く心地良くて、柄にも無く鼻の奥がツンとした。 「……お前の血が、欲しくなるんだ」 ずっと隠し通してきた。三度目は無いと必死に言い聞かせてきた。そんなオレの独りよがりのプライドをやわらかく溶かすように、彼女は小さく頷いた。彼女に縋るような形になってしまったことにどうにも照れくささとばつの悪さが邪魔をして、身体を離してからもまともに彼女の方を見ることは出来なかったが……それでも小さな手がオレの手を握って帰路につくその頃にはもう、オレは自分がバケモノでも人間でも、彼女さえ居てくれればどうでも良くなってしまった。どこかでもう一人の自分が、全く手がかかると笑う声が聞こえたような気がした春の出来事。 |