揺れて、揺れて、その手に触れる 「お前みたいに人間にもバケモノにもなれない出来損ないに、一体何が出来るって?」 耳元を掠めた酷く挑発的なその声に、言葉に、一瞬動きが止まったのはその言葉の真意がどうであれあってはならないオレのミスだった。占い好きのかつてのチームメイトに言わせればオレはこの日、相当"ついてない日"だったのだろう。 「試合?」 「ああ、あまり大きな試合でもないんだが…比較的近場の会場でやるんだ。都合がつけばでいい」 彼女を家まで送り届けて玄関の前で告げた今度の試合。WCも終え、3年生はとっくに引退。そんな中地域単位で開かれる次の大会は然程大きくは無いにしろ今後レギュラーとしての活躍が増えるであろう現1年生との関係をより定着させその1年生に場数を踏ませるためにも丁度良い機会だった。 年度末試験まではまだ少し時間があるし、会場まで何時間もかかるわけでもなければ交通の便が悪いわけでもない。特別な理由があるわけではないが、オレが心から好きだと思えたバスケに触れている時間を彼女は知らない。だからほんの少し気になったのだ。部活の時間、彼女は教室で待っている。今まで試合に呼んだこともない。必要だと思う事もあまりなかったが、自分の好きなものが相手の心に少しでも残ればそれほど嬉しいことはないと思うようになったのは……恐らく、彼女に出会って初めて知った感覚だ。 彼女がいれば頑張れるだとか、彼女がいれば勝てるだとか、そんなもの当然あるわけもない。誰が見ていて誰が見ていなかろうとオレは全力を尽くすしその上で勝利することは最早大前提である。ただ、彼女の瞳に少しでもオレが映るならばより一層、今を楽しめるような気がした。……そうして素直にこくんと頷いた彼女がどこか嬉しそうな表情で笑ったのはオレの思い込みではないだろう。 こんなにも言葉にし難い高揚感を抱いて試合会場に向かうのは初めてかもしれない。辿り着いた先、開会式を終えてそれぞれが控え室へと戻る。自分たちの出番はまだ先だ。静かに集中し始める部員を置いて部屋を出たオレの足はロビーへ繋がる廊下へと進む。行きも帰りも一緒に過ごすことが出来ない彼女がわざわざ出向いてくれるのだ。顔を見せねば筋が通らないだろう、というのは半分程言い訳である。オレが会いたいだけだと、そんなこと口が裂けても言えるわけがない。 「名前、こっちだ」 「あ、赤司くん」 予選は比較的盛り上がっているようで観覧席の外に居る人間は然程多くなく、すぐに見つけたその小さな身体に手招きをすればぱたぱたと駆け寄ってくる。転びやしないかと内心ハラハラするものだがそんなオレの気もしらないんだろうな、お前は。 「わたし赤司くんのジャージ姿、初めて見た」 「ああ……別に面白いものでもないだろう」 オレの顔を見るなり笑ってそんなことを言う彼女は彼女で普段あまり見ることのない私服である。どちらかと言えばそういう台詞はオレが言うべきなのだろうと思うのだがそうすらすらと出てくるわけがない。楽しそうに、物珍しそうに人の格好を見つめる彼女の瞳にもう随分と着慣れているはずのジャージに気恥ずかしくなるのも無理は無いだろう。そんな恥ずかしさを小さな咳払いをひとつ挟んで吹き飛ばし、ひとまず礼を、と口を開いた時だった。何処かで聞いた事のある声がオレの言葉を遮る。 「赤司!久しぶり、全中以来だな」 確か帝光中時代、毎年全中で顔を合わせる数少ないライバル校の選手だった。3年にあがってからは部長もやっていただろうか。何故その彼が京都のこんな小さな大会に居るのかはわからないが、IHでもWCでも彼の名前を見た記憶は無い。かつては一般の中学生選手の中で言えばずば抜けた技術を持ち、帝光中…いやキセキのメンバーさえ居なければ彼は恐らくこの世界のヒーローになれる程の実力者だったはずだ。 当時からそもそもお互いに良い関係ではない。恐らく相手からすればオレたちの存在は目障りでしかなく、酷く苛立ちを覚える毎日だったのだろう。それもそうだ、オレたちは試合に勝ったとしてもそれが当たり前であり、そして、他を見下してプレイしていたのだから。 笑った表情にそこまで何か嫌なものを纏っているわけではないがそれでも言葉には少し棘を感じる。流れる不穏な空気に彼女もうっすらと感づいているようで先ほどから彼女の神経は随分とオレの方へと向けられていた。時折ぴくりと揺れる彼女の指先は恐らく、そのうちオレの手か将又ジャージへと伸ばされるのだろう。けれど、それでは遅い。くだらない思い出話の最中にふと彼女を映した彼の瞳にオレは酷く嫌な予感がして 「すまない、また後で連絡する」 「うん。赤司くん、怪我のないようにね」 「当然、そんなヘマはしない。負ける予定もない、安心して見ていればいい」 彼女の言葉に笑って席へ戻す。あまり近付けたくないとオレの本能がそううるさく警告する。何故だろう、当時はここまでの危機感は感じなかったはずだ。それなのに、今、目の前にいるこの男が恐ろしく狂気じみた空気を放っているように感じる。このプレッシャーは一体何なのか。鼻を掠めた酷く嫌な匂いに、消えて行く彼女の背を映す瞳をまるごと睨みつければ纏っていたどこか嫌な雰囲気というものがより殺伐としてくる。 ひとつ、思い当たる節がある。何故当時気付かなかったのか、それは恐らくオレが心の奥底にその衝動自体を押しとどめていたからだ。 「お前…」 「流石だよなあ、随分良い餌飼ってるじゃん。あの時は同族の匂いなんてしなかったのにな」 ずっと知らぬ振りをしてきた自分の本能が、彼女の首に牙をたてたあの瞬間にまた戻ってきたのだろう。それでも彼女がいつだって傍にいたことで当たり前のように理性が先立って働き、どうしようもない衝動に突き動かされそうになったとしても彼女に触れるだけでそのほとんどは落ち着いていた。彼女と居るとき以外で血の匂いに敏感になることもなかったというのにこれだ。この鼻を突く血腥い匂いは恐らくオレが本能的に相手が敵であると察知しているからこそのものだろう。 「餌、だと?その牙を砕かれたく無ければそれ以上は口を開くな」 「ああそうか。お前は純粋にこっち側じゃあないのか。だから当時…成る程。恐らくこの後お前んところとうちがあたるだろ。あの頃のようにはいかないからな、楽しみにしてる」 すん、と鼻を鳴らしたその男が今までで最も嫌な笑顔を残して消えて行く。オレの知らない間に彼がいかなる成長を遂げていたとしても、負ける気などさらさらない。もっと言ってしまえば負ける等と思ってもいない。試合が終わるまでは恐らく向こうも大きな動きは見せないだろうが、こっち側じゃないと言ったその言葉の真意は恐らく……相手は完璧なバケモノ側、なのだろう。 あの後彼女と会う事は無く進んで行く試合の中で当然のように勝ち進み準決勝、向き合った選手の中に奴がいた。先ほどの威圧感なんてまるで感じさせぬ程軽やかな笑顔を貼付けて立つ奴は酷く不気味で、実力が本物なだけに今まで闘ってきた相手と比べればこの大会に限るが強豪であろう。無論敵ではない、充分勝てる相手だ。だからと言って油断をしていたわけではない、部員にも耳に胼胝ができる程言い聞かせているようにどんな相手でも手を抜く事などしない。 ただ、相手がオレの手の中にあるボールに腕を伸ばし身体が近づいた瞬間落とされた言葉はオレの動きを止めるには充分過ぎた。嘲笑うかのように吐き捨てられた言葉と共に踊るように彼の手の中へと奪われたボールはそのまま放物線を描いてゴールへと向かう。息を呑んだのは、恐らくオレが背を向けている後輩。 一瞬世界が止まり、嫌な汗が顎を伝って落ちたような気がする。耳の奥で反響し続ける言葉は、いつかのもう一人の自分を呼び起こしてしまいそうな程強く脳へ響いていく。そんなことがあってはならないと、彼女を裏切ることになってはならないと、もう一人の自分はもう殺したはずだというのに胸に広がりじわりじわりと浸食してゆく重苦しいものが消える事はないのだろう。 自分の存在が酷く中途半端である、それは薄々感じ取っていたものだ。血液に執着することは無く、極々他の人間と同じように生活をしている。だがオレを映し出来損ないだと吐き捨てた奴は恐らくそうではない。彼女を餌だと呼んだということは奴にとって人間は少なからずそういう対象であるということならば、オレとはまるで違う生き物である。悲観することなど何も無い、オレは彼女を傷つけない、それなのに何故……こんなにも、焦燥感に駆られる必要がある? 「今のが貴様にくれてやる最後の失点だ。次は二度と無いと思え」 「そう冷たいことを言うなよ、赤司」 僕の言うことは絶対だと随分懐かしい言葉がどこかで聞こえたような気がしたが、その後はあまり記憶に無い。ただ出来うる限り、必要以上の力の差を見せつけて「惨敗」を叩き付けた。決勝戦なんてものは最早オレの中ではあってないようなもので、多少予定が狂いはしたが当然だという顔をして大会を制し消え去る事の無い焦燥感を抱えたまま表彰式まで終え身支度を整える部員にクールダウンを言い渡し、そのままオレの足は再び彼女の元へ向かう。大会後は会場を後にする人でごった返すからと会う約束はしていなかったもののどうしても気が気じゃなかった。 耳に当てた端末からやっと聞こえた彼女の声は酷く不思議そうで今メールをしようと思ってただとかお疲れ様だとかある意味こちらの気が抜けてしまう程呑気である。いや、オレの胸の内など知る術もないのだから当たり前ではあるのだが。そんな穏やかな彼女の声は場所の指示をしている最中にふと遠くなり、途切れる手前に聞こえたのは間違いなくあの男の声だった。 自然と地面を蹴る足は速度をあげ、辿り着いた先で見えたのは彼女の背中とその向こうで背筋が凍るような笑みを浮かべる相手。あがった口角の隙間に見えた自分のものよりも更に鋭く尖ったそれに思わず声を荒げて彼女を呼ぶ。きょとん、とした顔で振り向いた彼女の首にその牙が小さな穴をあけたのと、牙の持ち主がうめき声をあげたのと、果たしてどちらが先だっただろう。状況が飲み込めていない彼女はその僅かな痛みに不安げな色を顔に乗せ、それでも相手の顔を壁に押し付けるオレを宥めようとする。 ああ、こんなにも余裕の無い姿を、彼女に見せる事は避けたかったのに。 「余程死にたいようだな」 「良いだろ味見くらい、オレ等の世界じゃよくある話さ」 「貴様のような低俗な生き物と一緒にするな」 地を這うように威嚇の意を込めて言葉を選ぶ。隙など見せぬよう。綻びなど見せぬよう。ああいっそ、この手でその首をひねり潰せたらどんなに良いだろう。感情に突き動かされることなどあってはならない、そうして色々なことに歯を食いしばって堪えてきたというのに、オレはどうも彼女に関しては何から何まで融通や妥協など頭にないようだ。 「っ低俗?ははっ、お前の方がよっぽどお似合いだろ」 後ろから頭を掴んでいた手を離せばずるずると壁伝いに座り込む相手に彼女がまた困惑している気配を背中に感じる。分かっている、怯えさせていると。それでも止められなかったのは、押さえ込んできた本能が、欲が、目の前の男の言動行動で溢れ出ているからか。自分の事は棚に上げて何を、そうやって客観的に囁く自分がいる。深く息を吐いて、これ以上無いくらいの怒りを込めてその男の顔面すれすれの壁を蹴ってやる。靴底が鳴らす音は思いのほか大きく響いたがそれでも誰か来る気配はない。今度こそ表情に焦りを出した相手を見下して落とす言葉で、いっそこの男の命の火さえも消せてしまえばいいのにと祈ってしまった。 「では、その低俗で出来損ないにすら敵わないお前をオレは何と呼んでやればいいんだろうな。失せろ、今すぐに。金輪際オレと彼女の前に姿を見せるな。言ったはずだ、次は無いと」 舌打ちと共に消えた相手に果たしてどこまで堪えたのかは分からないが、走り去る背中がピンピンしていたあたりもう少し懲らしめても良かったかもしれない。握りしめた拳に触れた酷く冷えてしまった小さな手はようやっと現状を理解したのか少しぎこちなくオレの手を握る。覗いた先に不安げに揺れる瞳。 「済まない、随分と怖い思いをさせただろう」 背中を屈めて額を合わせればその瞳は伏せられてしまったけれど、小さく穴があいてしまったその首を柔く撫でれば彼女が口を開き言葉を落とす。オレが、予想もしない言葉を。 「すごく、怖かったし、気持ち悪くって……やっぱり、赤司くんだけなんだなって思ったの」 「……は、」 「吸血鬼なんて半分くらい実感湧いてなくて、でも……ああそっかって今更本当にちゃんと理解出来た気がして、でもそれで一緒に居られるのってやっぱり赤司くんが赤司くんだからで」 日本語むずかしい、そんなことをぼやいて黙り込んでしまった彼女に柄にも無くすっかりと絆されたオレはいっそ考えることなどやめてしまいたい。据え膳食わぬは何とやら、なんて言葉に惑わされてはだめだろうか。 「…とりあえず、消毒させろ」 「えっ!」 しっかりと抱き寄せた彼女の首に顔を埋めて牙を刺す。あんな奴の痕なんか消えてしまえばいい。彼女の中に生まれた恐怖も、あの感触も、なんなら記憶ごと塗り替えてしまえたら尚いい。酷く期間のあいた彼女の血液はやはりオレを酔わすようで、オレを探す監督の声が聞こえるまでただ黙って彼女を腕に閉じ込めていた。 後日、 「…で、お前はもう少し危機感を持てを言っているだろう。無闇矢鱈と人についていくんじゃない」 「ごめんなさい」 彼女の危なっかしさについて直接説教をすることになったのは言うまでもない。 |