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君の世界が見たいのに

これだけ終わったら帰れるから、秀ちゃんとこ寄ってもいい?そうやってこてんと首を傾げた彼女に不覚にもときめきながら頷いたのは数時間前の話だ。定時は同じ時間のはずなのに、俺は今着替えてシャワーも浴びて、彼女と食べるための夜ご飯だって作り終わっている。下ごしらえだけ、と思っていたのに待てど暮らせど来る気配のない彼女にしょうがないなあと火も通して今度は温め直すだけになってしまった。

これじゃあまるで、旦那の帰りを待つ奥さんみたいじゃないか。少なくとも俺は嫁に行く予定は無い。これっぽっちも。世界がひっくり返ったってない。あ、いやひっくり返ったらあり得るのかもしれないけど。そういう小難しい話は俺じゃなくてコウちゃんのがよっぽど得意だ。


「………おっせーな」


ソファに座って視線だけで確認した時計の画面では既に23時を過ぎている。おかしい。これだけ、のこれだけというのは果たして4時間もかかるものなのか。だとしたら彼女の時間の感覚は随分と人並みからズレているものになるけど、でもたぶん、そういうんじゃない。イレギュラーな何かが起こっているんだろう。私服でオフィスまで行くのも気が引けるし、ギノさんに見つかると小言のひとつでも言われそうではあるけれど、彼女のことが心配じゃないわけじゃない。

何より、限られた行動範囲の中で俺が迎えに行くことが出来るのはこの狭いビルの中でだけなのだ。本当は仕事を終えて夜遅くに帰って行く彼女を送って行ってやりたいとさえ思うのに、泊まって行けば?の一言しか言う事が許されないのは時々苦しいものがある。せんせーがうまいこと誤摩化してはくれてるっぽいけどそれでも、執行官の部屋は基本全部監視されているのだからそうそう彼女を泊めるわけにもいかないのが現実で、いや別にやましいことなんてこれっぽっちもないんだけど。哀しい事に。

俺は彼女のことが好きだし、キスのひとつでもしてやりたいくらいだし、言ってしまえばそれなりに健全な大人の男なわけで。と、思うところは色々あるのになんだか彼女がまるで俺といるだけでしあわせです!みたいな顔をしてくれるからついつい俺もそんな顔してくれんならまあいいか、と思ってろくに手も出せやしない。
そりゃこの世界で愛だの恋だの言う方が無理があるってもんだけど。それでも、俺が彼女を守れたらいいのにと願ってしまうくらいには彼女のことが好きなのだ。俺には、本当の意味で彼女を守ることなんて出来ないことも理解しているのに。

朝彼女を迎えに行って、デートに行く。そんな簡単なことさえ俺には出来ない。

それでも彼女を見る度に湧き上がって来るどうしようもないこの悶々とした、でも心地よい感情に身を任せれば必然的に俺は彼女の手をとるし、ゆだねてくれる彼女がいる。それで充分だというのは本心でもあり、自分へ言い聞かせている言葉でもあり、まあなんだ、恨む相手が居ないんだから仕方が無い。彼女が俺の傍にいる。それだって、奇跡みたいなもんなんだから。


「……あれ、」


何も出来ない自分の手を握りしめた頃、宿舎から一歩出る手前で見えた人影は彼女のものだ。その視線が床から外れることはなく、足取りも重たそうに見えるのは俺の気のせいではないだろう。肩にかけられた鞄が今にも落ちてしまいそうなくらい不安定に見えて、自然と俺の足は歩む速度をあげる。


「名前、何してんの」


倒れてしまいそうな身体を肘を掴んで引き寄せれば彼女の少し大きく開かれた瞳と視線が絡んで、そのまま彼女は眉間に皺を寄せてごめんね。なんて小さく謝って黙り込んでしまった。ああいや、そうじゃない。どちらかと言えば話をする元気もないくらいにはグロッキーらしい。


「何、仕事積まれたの?ギノさん?」

「……秀ちゃん」

「ん?」


彼女の肩から落ちかけている鞄をひったくって、そんな鞄を目で追いかけながら彼女が言う。


「置いて、行かないでね」


絞り出すように落とされたその一言は何故か俺の心を酷く抉る。何を聞いたのかなんて解らないけれど、今日の宿直はコウちゃんだったはずだ。そこまでくれば大体想像つく。本当に、余計な事を言ってくれる人だ。
そんな約束、俺には出来ない。俺といるだけでいい、そうやってしあわせそうに頬を緩める彼女の姿もきっと本物に間違いはなくて、だけどその反対側では俺が知らない莫大な不安と恐怖を抱えているのだろうと思う。

大人の手で、シビュラの手で、いとも容易く引き裂かれた彼女との穏やかな時間。あの時の絶望が恐らく俺以上に彼女には根強く残っているのだろう。どれだけ伸ばしても届く事のなかった手がやっと届いた。それなのに、その手がいつするりと抜け落ちてしまうかもわからない。
俺の生きる世界には絶対も永遠も存在しないのだ。ただ死ぬまでひたすらに猟犬としてシビュラに使われ生きていく。そのことに不満があるわけではない。それなりに楽しい日々ではあるし、彼女とも、この生活をしているからこそ再会出来た。こうしてまたあの穏やかな時間を少しずつ紡いでいける。

でも、だ。

どんなに彼女を想っても、やっぱり俺には出来ない事の方が多くて、最悪の事態を考えたとき俺に出来るのは彼女を守ることではなくきっと……彼女の身代わりになることくらいだ。その後、俺の居ない世界を歩いて行く彼女が幸せになれるのならば俺は正直どんな死に方だっていいと思っている。でもそうじゃない、きっと彼女はあの時のようにもしくはあの時以上に必死に手を伸ばして、泣き叫んで、壊れていく。もう二度と、「いつか会えるかもしれない」なんて願いを抱くことも許されないのだ。

この穏やかな日々を守ることも明日を確約することも、傍にいるなんて簡単に言うことさえ出来ない俺にどうやったら彼女を安心させられるのだろう。バカな俺にはわからない、さっぱり。だから、こんな俺に出来ることは、酷く限られていて


「名前、置いて行く気なんか、ねえし」

「うん」

「でも、何があるかわかんねーじゃん。もしかしたらとっつぁんぐらいの歳になっても元気に猟犬やってるかもしれないし、明日死ぬかもしれない」

「…ん」

「だから、」


だからさ、全部教えて。抱えてる不安も、背負ってるプレッシャーも、奥底に沈んでる悲しみも。大してなんにもしてやれない俺だけど、そんなひとつひとつを拾ってやることぐらいは出来るだろ?
同じ世界を見ることは出来ないから、せめてお前の見ている世界が少しでも色鮮やかであるように。


「あんま難しいこと考えんなよ、大体昔っから脳みそ足りてねーんだから」

「秀ちゃんに言われたくない」

「なんだと。あーでも、本当さ、心配すんだって。お前はこっち側には来ちゃいけねーんだよ。あんま溜め込むなよ。戻れなくなってからじゃ、遅い」

「…でも、そしたら、秀ちゃんと同じ世界が見れるのかな。私にも」

「見なくていーって、こんな世界。むしろ、」


そんな余計な事ばっか考えてふらふらになってるくらいなら、ずっとずっと、俺だけを見てればいいんだ。君の世界が見たいのに、それさえも許されないこの世界で、ただただ残酷に刻まれる時間を君への愛に費やそう。




「…つーか、コウちゃんと話し込んでねーで本当さっさと帰ってこいよ」




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