彼の心配、彼女の懊悩 「また明日」 会えるのは早くても朝練が終わってホームルームまでの間か、将又一限が終わってからの休憩時間か。決まり文句を交わして去り際に見た彼女の顔色があまり良くなかったように見えたのが青白い街灯のせいだったのかは分からないが、あまり長居も出来ずにそのまま駅へ向かう。ふと鼻を掠めた彼女の匂いに掴みようのない寂しさを握りしめながら。 次の朝。案の定朝練が終わった後廊下を通った際に覗いた教室で彼女と視線が絡むことはなかったが、それでも昨夜見た顔色の悪さは消えていて安堵する。オレの牙を見てからも彼女との関係が変わることはなく、そして再び彼女の首に牙を立てることもなく、相も変わらず彼女との時間は穏やかに続いていた。 「…具合でも悪いのか」 「え?」 顔色の悪さは消えていた、それは朝確認したことだ。けれど、一緒に昼食を食べる時になって彼女の手荷物の少なさについ視線が流れる。いつもの弁当箱ではなく、彼女の手にはコンビニのサンドイッチがひとつ。決して小食ではなく人並みに食事をとる彼女だからやはりオレの気のせいではないのかとその瞳を覗いたというのに 「お弁当、玄関に置いてきちゃって。朝慌ててコンビニ寄ったの」 あっけらかんと笑った彼女はやはりいつも通りにも見えた。向き合って箸を進めながら彼女のサンドイッチが三分の一くらいになった頃、対して意識もせずに弁当箱に残った卵焼きを箸で掴んで彼女に差し出せば一瞬瞳を大きくして、その後目元を少し染めてぱくん、とそれを口に含み今度はゆるゆると表情を緩ませるその姿にまるで雛鳥だなと笑う。 赤司くんのお弁当はいつもおいしいね、そう言って彼女の手に握られたサンドイッチも無事に彼女の口へと消えて、いくつか言葉を交わしていた最中。彼女がぐっと伸びをした瞬間、ふわりと昨夜と同様に鼻を掠める彼女の匂い。少し、ほんの少しではあるが、彼女の血液への欲も見え隠れしているような気がする。…調子が悪いのはもしかしたらオレの方かもしれない。 少し眠たそうに目尻を下げた彼女がいつも以上に可愛くて、ああいや…あくまでも雛鳥的な意味でだが。 「眠たいなら寝ればいい、授業が始まる前には起こしてやる」 そっと撫でた頬は相変わらず触り心地が良くて、そのままするりとうなじまで撫でてやればくすぐったそうに笑う彼女に相変わらず得体の知れない欲は付き纏う。彼女に傷をつけるのは避けたい、出来る事ならばあの事実でさえ消えてしまう程当たり前の時間を彼女とは続けていきたい。そんなことを考えていたからだろうか、彼女の髪を撫でていたオレの手に触れた小さな手がそのまま袖を掴むから、いつもより少しばかり深く瞳を覗けばその瞳は今にも睡魔に溶けてしまいそうだった。 「ごめんね、ちょっとだけ寝させて」 オレのてのひらにほんの少し顔を乗せて瞳を閉じる彼女の姿は雛鳥よりも子犬に近かったが、どちらにせよ愛玩すべき対象に変わりはない。彼女の肩を軽く引けばなーに、とどこまでものんびりした声がかえってくる。返事はしてやらない。ただ、その身体を自分の方へ引き寄せて、ぽすんと何とも間の抜けた音と共に彼女の頭を膝に乗せた。 もう半分は夢の中なのだろう。恥じる姿も戸惑う姿もそこにはなく、安らかに続く寝息。自分の欲を切り裂いて、こうしてただただ身を委ねてくれる彼女と日々を重ねていきたいと、そんなオレの願いは神様でさえも叶えてはくれないらしい。 「…どうしようもないな、全く」 少しずつ理性を蝕み続けるその欲を振り払うように、無防備に膝で眠っている彼女の額にキスをした。 5限が始まる少し前に目を覚ました彼女はオレの顔を見るなり目元を染めて状況理解に苦しんでいた。そんな姿を笑ってやりながら教室へ送り、いつものように授業に部活にあっという間に日は沈む。着替えを済ませ、戸締まりを確認して彼女の待つ教室へ。校内も随分と冷えてきたものだ、彼女が体調を崩している理由はこれかもしれない。 「……名前?」 机に伏せられた彼女の顔。俺の声にゆるゆると伸びてきた手が何かを探すように動くからその手を掴んでやれば小さく小さく名前を呼ばれた。どうしたものかと思考を巡らせている最中で更にか細く聞こえたのは「お腹いたい」の一言だけだった。 「食べ慣れないサンドイッチなんか食べるからだろう」 「ちが、」 「冷えたのか?マフラーは…ああ、今日は忘れ物が多いな」 ぎゅう、とオレの手を握るその小さなてのひらに力が籠もり、保健室へ連れて行くべきかと思ったところで彼女が口を開く。どうやら今日は彼女の口とオレの思考のタイミングが合わないらしい。遮られてばかりだ。昼見たときよりもくっきりと寄せられている眉間の皺に青白い顔、相当辛いものであろうことが分かっていても尚……彼女の匂いがオレの思考に靄をかける。 「せ、いり、なの!」 セイリ…………生理?ああ、そうか。 「なんだ、何故もっと早く言わない。体調が悪いのは昨日からだな?」 風邪でないことに少し安堵する。オレが待たせているせいで彼女が風邪でも引いてしまったらオレの立場というものが無い。ただでさえ彼女のために作れる時間は限られているというのに、彼女にこうして待っていてもらわなければ日頃共に過ごすことなど出来ないというのに。けれど、 「言えるわけ、ないでしょ…!」 オレの手を握ったまま、気を遣わせるに決まっているのにだの、いつもは大したことないのにだの、薬飲めば多少は楽だからだの、兎に角いつも通り一緒に帰りたかったのだと、泣き出しそうな声で止まる気配もなく落とされる言葉に思わず目を見開いた。気にしなくて良い、というのはこの場合やはり良くはないのだろうか。正直、そんなの鬱陶しくも何ともない。オレからすれば、しんどい時こそ素直に頼ってもらう方が余計な心配もしなくて良いんだが…どうやら女心というものは違うらしい。この手ものはどうにも得意じゃないな、いつだって彼女はオレの想像を超えるのだ。 「…オレの配慮が足りなかったか、すまない。だが、オレはお前に無理をされるのが一番困る」 「そ、そんな風に言うの、ずるい」 「気を遣わせればいいだろう。迷惑だとも鬱陶しいとも思わない」 それとも、お前はオレをその程度の人間だとでも?冗談めかしに笑って問えば、顔をあげた彼女がごめんね、ありがとう。なんて笑うから今度こそ心の底から安堵し彼女の背を撫でる。何となくではあるが、昨晩からオレを引っ掻き回す欲の正体も解ったような気がする。 彼女の甘い匂いがいつもより強く感じられたのも、おそらくは彼女の生理と大きく関わっているのだろう。ホルモンの関係なのかは解らない。別に血の匂いを嗅ぎ付けたわけではないのだ。ただ、大きくなるばかりの彼女の血液への欲求が酷く煩わしいことに変わりはないものの、原因が分かれば幾分か和らぐ。ああ、本当に 「…らしくないな」 「うん?」 「……ちゃんと言え、心配する」 「ん、ごめんね」 彼女の首に自分のマフラーを巻いて、今日はゆっくり帰ろうか。 |