ZZZ | ナノ




昔話はあてにならない。




気付いた時には目の前の彼女は青白い顔でぐったりとしていて、首筋に残る小さな傷に驚く程冷静にオレの頭は働き始める。迎えの車を呼び、彼女の荷物と一緒に彼女を抱えて学校を後にした。彼女を泊めるのは初めてのことではない、恐らく彼女の両親はそこまで口うるさい方ではないのだろう。無論今までは試験前に勉強を見てやるためだけの泊まりではあったが。

あの日彼女が不安を口にした階段で、一段一段降りる際の揺れに一瞬目を覚ました彼女が耳元でぽつりと礼なんて言うからオレの心臓は潰れてしまう程に締め上げられた。彼女の記憶にはもしかしたらオレの行為は残っていないのかもしれない。それでも、この先隠し通せる自信は無い。否、隠し通そうと思えば隠し通せるだろうが、彼女に嘘をつくことはいずれ必ず彼女の涙を生んでしまうであろうことがどうしたって視えてしまうのだ。それはオレの本意ではない。


車から降りれば、抱えられている彼女を見て何か言いたげな目をする家の人間を同じように目で黙らせて自室まで彼女を運ぶ。浅くなった寝息にソファへおろせば今度こそ薄く開かれる瞳。首を傾げて、ゆるゆる開かれた小さな唇は確かめるようにオレの名前を紡いでゆく。


「あかし、くん?」

「ああ」

「…あれ、赤司くん、ち?」

「ああ」

「えっと……」


記憶の糸を辿るように少しだけ寄せられた眉間の皺。その皺が緩むと同時に少しずつ不安を滲ませる表情に堪らなくなって頬を撫でれば彼女の瞳がオレを映した。そのまま柔らかい髪を耳にかけてやって、額を合わせたところで小さく吐き出される息。一緒に肩の力も抜けたように見える。余計な緊張感は必要ない。何よりも先に払拭してやらねばいけないのは、彼女の抱く不安だ。


「進学するのに東京へ戻るのは事実だ。きちんと決まったら言うつもりだった」

「うん」

「別に、だからお前について来いと言うつもりはない」

「っ、うん」


嗚呼、本当に、どうして彼女はいつだって最悪を覚悟するのだろう。続く言葉が彼女を悲しませるわけがないというのに。


「だが、お前が望んでくれるなら…オレは幾らでも攫ってやりたいし、見守ってやりたいとも思っている」


彼女が一緒に居ることを望むならどんな手をつかってでも連れて行く覚悟はとうに出来ている。だが、別に会えない距離でもないだろう。休みの度にこちらへ来ても良いし、彼女を招いても良い。何も心配するような距離じゃない。今はまだ、リスクを冒してまで一緒に居ることを選択するほど切羽詰まっているわけではないのだから。


「それとも、オレはそう簡単にお前を捨てるような人間に見えるのか」

「ちが、そんな人じゃないってわかってるけど、でも、身の程知らずなのもわかってる…から」

「身の程を知らないのはあの男の方だろう。ここまで言ってるのに何が不安なんだ。そちらの方がオレはよっぽど不思議で仕方がないよ」


こんなにも可愛くて大切で仕方が無いというのに。嗚呼それでも、オレがどんなに彼女を想っても彼女の想いがそこで途絶えてしまっては意味の無いものになるんだな。不安の方が大きくなればきっと彼女の愛は壊れてしまう。苦しみが大きくなればそれだけ彼女はオレと一緒に居る事を拒むようになるのだろう。寂しさが大きくなれば彼女は自ら離れていく。そんな彼女を縛り付けるつもりは毛頭ないが、幸せにはなれないだろ、それじゃあ。


「ああでも、もしかしたらお前は離れることを選ぶかもしれないな」


彼女がオレを恐れない保証は、どこにも無い。


「どうして、」


わたしが?その言葉を飲み込ませるように首筋を撫でそのまま重ねた唇に彼女の瞳にたまっていた涙がまた零れ落ちる。綺麗だと思う、彼女の涙が。血を見るよりずっとくるのだからオレは随分と人としても、"そちら側"としても、捻くれ者なのかもしれない。彼女に一瞬力が入り、ふと漂った血の匂いで無意識のうちに牙を引っ掛けてしまったことに気付く。

薄い皮で守られていたそれは大した痛みは伴わなくとも、一度切れてしまえば簡単に赤い液体を零して彼女の唇を汚していく。その様にとてもじゃないが彼女には似合わないな、と思いながら舌で拭って顔を離した先にすっかり固まってしまった彼女がいた。ほんの少し、笑ってしまいそうになったのは彼女には内緒にしておこう。きっと拗ねてしまうから。


「すまない、今のはわざとじゃない」


けれど


「美味いな、と言えばわかるか?」


どうして、眠っている間にオレの部屋に移っているのか。きっと彼女の記憶は断片的なものしか残っていないのだろう。話を聞く限り彼女の首に歯を立てた瞬間の記憶は綺麗に抜け落ちているようだった。

涙もすっかり引っ込んでしまい、瞬きをひとつふたつ繰り返す彼女に向き合って、先ほどまで彼女の首筋を撫でていた人差し指を自分の口へもっていく。口の端を軽く引いて彼女へ見せるのは八重歯のようで、でも確実に人間のものとは違う鋭利なそれ。


「……えっ、と」


繰り返していたはずのまばたきもいつしか忘れられ、ただただきょとんとした顔でこちらを見る彼女に今度こそ小さく笑ってしまう。何故笑われているかも分からない彼女の頭上には心無しかクエスチョンマークが鏤められているように見えて、それすらも笑いを誘うものではあるのだが、いつまでも口を半開きにしたまま間抜け面の彼女と向き合っているわけにもいくまい。


「物心ついた時には当たり前のように牙が生えていた。自分で把握しているわけではないが、言うならば出来損ないの吸血鬼とでもいうやつだろう。人間の血が無いと生きていけないわけじゃない。今までだって別に人の血を吸ったこともないしな」

「ま、待って、えっと、さっぱりわからない、です」

「オレはお前と同じような人間じゃない、と言う程大袈裟なことでもないかもしれないが」

「じゅ、じゅうぶん、大袈裟なことかと、思うんだけど」

「生きていけないわけじゃないとは言ったが…金輪際吸わないとはオレには言えない。オレにとって名前の血液は酷く魅力的なようだからね」

「…わたし吸われたの?」

「………少しな」

「本当に?」

「オレもよく覚えていないんだ。だからお前を傷つけないとは約束できない。釣り合うとか釣り合わないとかそんなくだらない天秤に乗せられて悩んで離れていくのは納得出来ないが、もしお前が」


オレを怖がるようなら、それこそ傍にいろとは言わない。そう続くはずだった言葉が今度は彼女の手がオレの手に重なったことで遮られる。オレの手を包もうとするその小さな手を握り返せば彼女の表情はやっと、緩んだような気がした。


「赤司くん、あのね」

「うん?」

「やっぱり、大袈裟なことなんかじゃ、ないよ」

「…名前?」

「東京に行くか行かないかは、まだ、わからないけど」


一瞬伏せられた瞳に、落とされた睫毛の影に、胸が小さく音をたてた。


「…赤司くんと一緒にいたいことに、かわりはないから。心まで離れてしまうのは、すごく悲しい」


こんなわたしでも、傍にいていいって言ってくれるなら傍にいさせてほしい。そう言って今度こそ穏やかに笑った彼女にやはりオレの心臓はまた少し締め付けられて、それでもほんの少しの甘さに口元は緩む。仕方が無い、例の男子生徒に関しては今回だけは見逃してやることにしよう。腕の中で、今度はオレの心を和ませるだけの礼を零して身を預けてくる彼女に免じて。



「…あ、もしかして赤司くん、にんにく苦手?」

「オレが食べられないのは紅生姜だけだ」


残念そうに笑う彼女に今度こそ傷つけまいと優しく唇を重ねたのは、月が綺麗な夜の話。



- ナノ -