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いつか視た熱

自分が人とまるで異質の欲求を抱いていることに気付いたのは果たしていつからか。幼い頃、体育の授業中に転けたクラスメイトの膝から流れるその赤い液体に、ぞくりとした何かが背筋を駆け抜けた気がした。気のせいだと言い聞かせ、何でも無いふりをして過ごした日々。その中で少しずつ、だが確実に根付いていったものは人間の血液への欲だけだった。あの綺麗とは言い難い赤銅色が、鼻につく錆びた鉄のような匂いが、魅力的で仕方がない。ふらりふらりと気がついたら自分の手が他人の首へ伸びてしまいそうなあまりにも不安定な生活。

そんな想いと欲望を必死に押し込んでいるうちに気付けばそっと蓋をして忘れるようになっていた。はじめからオレの中には存在しなかった、そんな欲望。


「名前、待たせたな」

「いーえ。自習が捗るからちょうどいいの、この時間」


日が沈む頃には夏服では少し肌寒く感じるようになった今日この頃。部活を終えて教室へ戻った先にある、黙々と机に向かう彼女の背中に声をかける。帰宅部の彼女にしてみれば練習時間を延々と待ち続けるのはどれだけ大変なものかと、何度か帰れと言い聞かせたがとうとう彼女が頷く事はなく、先に折れたのはオレの方だった。

大丈夫、そう言って笑う彼女と帰り道を共にしたい想いはオレの中ではそれなりに強いものであり、そこまで言うならというのは恐らく彼女へ対する甘えであろう。


「赤司くん、大学はまた東京に戻るの?」


昇降口へ続く階段を下りながら、ぽつりとオレより一段上で立ち止まった彼女が呟く。お互いに進路の話は然程していない。何の脈絡もなくこんな話題を振ってくることは珍しく、つい無意識のうちにどうやら眉間に皺が寄ってしまったらしい。


「…ごめんね、なんでもない」


一瞬酷く哀しそうな顔をした彼女が何を想ったのかは分からない。けれど、別に怒った訳じゃないと腕を掴む。質問の内容以上に気になったのは、何故、今、彼女がそんなことを口にしたのか、である。何の理由も無くくだらない質問をするような奴じゃない。かと言って純粋に聞いているようにも見えない。彼女自身が未来に酷く不安を抱いていることはオレもよく知っている、恐らく彼女以上に。

色々なことを考え、そんな不安を押し潰すかのようにオレを待つ間ひたすら机に向かっているのだ。だからこそ彼女の真意を見誤らないように、改めて彼女の瞳を覗く。その奥でやはり不安がゆらゆらと揺れているように見えた。


「名前……誰に、何を言われた?」

「…誰にも、何も言われてないよ」

「……その一言を信じろ、という解釈で間違ってないな?」

「ん。ごめん、大丈夫。ちょっと、ホームルームで進路の話が出ただけ」


わたしは、やっぱり何をしたらいいかまだわからないから。そう言って困ったように笑う彼女の一体何を信じろというのか。それでも、そこでどれだけオレが踏み込んだとしても、彼女は間違いなく口を噤んでしまう。今度はもう少し早めに練習を切り上げようと考えながらその日はただ、その小さな手を拾って帰路についた。




「なんでお前赤司と付き合ってんの」


そんな言葉を耳にしたのはあれから数日後のことだ。いつかのように教室へ彼女を迎えに行ったら、その教室には彼女の荷物だけが置き去りにされ、姿は見えなかった。そう毎日約束をしているわけではないが、彼女と過ごすようになってからの習慣のようになりつつある帰り道。すぐに戻って来るだろうと窓にもたれて彼女の机を眺める。開かれたまま置いて行かれたノートには少し丸みのあるそれでも綺麗なアルファベットが連なっていて、綺麗に整理されたノートがまるで、彼女の努力を物語っているようだった。


何をしたらいいかわからない。いつだってどこか自信を持てずに手探りで生きている彼女は誰よりも人間らしいと思うし、客観的に見ても実際やろうと思えばある程度出来てしまう側の人間だと思う。器用、と言う一言で片付けてしまうのはあまりにも彼女の努力や苦悩に申し訳なくなるがそれでも、器用という言葉が当てはまる人間だろう。

それなのに、「自分なんか」という想いが根底にある彼女が万が一、彼女の心配するようにどうにもならなくなってしまったらそれこそオレが全て攫ってやるのに。そんなオレをあいつは笑うけど、別に冗談を言っているつもりはない。

だから、出来るだけ引っ張ってやろうと思っていた。落ちてしまわないように。彼女が道を見失ってしまわないように。大丈夫だと、後ずさるその背中に手をそえてやろうとさえ思っていた。

そんなことを考えていたからか、ふと何か嫌な予感がして、というにはもっと曖昧なものだが……虫の知らせというやつだろうか。彼女がどこで何をしているのか気になった。入れ違いになってしまうかもしれないのに動き出したオレの足は気付けば施錠されている屋上の扉へと続く階段へ向かう。日頃生徒が出入りするようなところではないし、ここで人影を見た記憶も無い。それなのに聞こえてきた声は確実にオレの名前を呼び、向けられた相手はわざわざ確認しなくとも彼女だと分かる。


突き刺すように刺々しく吐き出された言葉の主はいつか彼女のクラスで見た事がある男子生徒で、出来る事ならすぐにでも彼女を連れて帰りたいところであるが…流石に彼女とクラスメイトの間に口を出すのも彼女のためにはならないかと壁に凭れて様子を見る。早く話を終えて欲しい、こういう無駄な時間はあまり好きではないのだ。彼女と帰路を共にする、それだけでオレの放課後は充分すぎる程満たされるのだから。


「どう考えたって釣り合ってねーじゃん。進路も決まってないんだろ、お前」


姿は見えないがそれでも、彼女が息を呑む気配がした。数日前そんな話をしたのはもしかしたらこの男のせいかもしれない。男が抱いているのは果たして友情か、将又オレへの恨みか僻か。そもそもオレと一緒にいることであまり良い顔をしない人間がいることは以前からわかっていたことだ、オレも彼女も。だから出来る限り彼女へ害がないようにとそれなりに尽くしてはきたものの、こうして彼女への善意や好意でさえ時に事を宜しくない方向へと運んでくれる。いっそのこと全てを潰してやりたいと思うものの、結局は彼女が笑ってくれなければ意味が無いと堪えている。

だが、果たして今回は堪える必要があるだろうか。


「赤司は東京行くんだろ、どうせ捨てられんだからさ」


トン、とその男子生徒のてのひらが彼女の顔の横についたのと、オレの足が動いたのと、果たしてどちらが先だろうか。「オレにしときなよ」そんなベタな台詞と一緒に近づいた男子生徒と彼女との距離にオレの脳は思考する事をやめた。


「誰の許可を得て彼女に触れている」


彼女の頬に触れかけたその手首を掴めばその場の空気が一気に凍り付く。酷く傷ついたような表情で立っている彼女に背を向けて立てばその相手は転がるように階段を下りて廊下へと消えて行った。顔と名前は一致している、今逃げられたところで問題になるようなことではない。後からいくらでも追いかけられる。

振り返れば怯えるような顔をして、そのまま相変わらず不安に揺れる瞳から涙をひとつ。覗き込めばまたひとつ、次から次へと溢れる涙を追いかけるように小さく震えながらしゃがみこんでしまった彼女。何に怯えているのか。あんな男の言葉をどうして真に受けるのか。彼女を傷つけた男への怒りと、早々に彼女を連れて帰れば良かったという後悔と、そんな想いがぐるぐると入り乱れる胸の内で少しずつ迫り上がってくる熱はいつかしまったはずのそれで


「お前は、オレのものだろう」


ただ膝を抱えてごめんなさい、と呟いた彼女にいつかのように背筋を駆け抜ける寒気にも似たもの。心臓が大きく波打って、そのまま何も考えずに彼女の首に歯を立てた。



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