そんなわけで、 季節は冬に足を踏み入れた頃。冷たい風が吹き抜けて、不安定な天気が続く日々。今日も今日とて空は暗くとても静かに雨を降らす。少しずつ、でも確実に地面を濡らしてゆく雨はあっという間に水たまりを作り、ぐんぐん気温を下げていく中少しの緊張感を乗せて車を走らせるのは彼女の家へと続く道。 ワイパーが拭き上げる度にぽつりぽつりと窓ガラスに落ちて来る雨粒も、今日はちっとも鬱陶しく感じない。すこぶる機嫌が良いのである。 目的地の前に車を止めて、インターホンを鳴らす。事前に話をしてあったおばちゃんは相変わらずにこやかに出迎えてくれて、よろしくね、なんて一言と一緒にお菓子をくれた。気にしなくていいのに、オレがしたくてしていることだ。むしろ大事な一人娘をオレなんかに任せてくれてありがとうございます、おばちゃん。 世間話に発展した頃、トランクをひとつ抱えて二階からおりてきた彼女の表情は緊張に満ちていた。学校にはたまに行ってるんだから外へ連れ出す事をそこまで心配することないかもしれないけど、行き先をきちんと知らない事が彼女の不安を煽っているのだろうか。オレの家、それだけで安心出来る程彼女の心に積み重なったものは小さいものではない。それは分かっていても、だってずっと一緒に、一番傍に居たのに、そこまで身を委ねてはもらえない歯痒さもオレを支配してゆく。嗚呼、複雑だ。 「車で一時間半くらいっス。途中で具合悪くなったらちゃんと言うんスよー?」 彼女の荷物を預かってから、助手席を開けようとしたら後ろがいいと言われてやっぱり外に出るのは彼女にとって良くないことだと実感する。外が見えてしまうのも、外から見えてしまうのも、恐らく彼女に相当な負担をかけるのだろう。幸い後部座席は外からは見えにくいようにフィルムを貼っていた。実際、オレ自身が必要に迫られて、という面が多いにあったそれも今回ばかりは大正解だったなあとひとり頷いておばちゃんに挨拶。 エンジンをかけて、ふと後ろを見て気付く。彼女の腕の中の、それ。 「…あれ、それ持ってきたんスか?」 「うん」 「名前のは?」 「これだけで、充分」 「そうなの?ま、必要ならいつでも取りに来れるしいいけど。最低限必要な物は揃ってるし……ああでも、好きなように部屋作ったらいいよ」 それ、いつからかオレのために用意されていたクッションを大切そうに抱えているその腕にはいつもよりずっと力がこもっているように見えて、これはさっさと家まで辿り着かないと彼女がげっそりしてしまいそうだとアクセルを踏む。流れる景色が少しずつ、緑からコンクリートへと変化し、人の波も増えてきた。並走する車も必然的に多くなることに少しだけ生まれる彼女への不安。 相変わらず緊張のせいか口数少ない彼女は、車に乗ったときと同じ姿勢のままかたまって動かないけど。すっかり強張ってしまった表情をなんとかするべく、もうそろそろっスよーと声をかければうん、と小さな返事。駐車場へ車を停めて、中でおろおろしている彼女を見ながら荷物を下ろす。 「名前、こっち向いて」 「え?わっ、なに」 クッションを抱えたままなかなか下りようとしない彼女に自分の首にかかっていたストールを巻き付てやる。ほら、これなら顔だってある程度は隠れる。すっぽりとストールに埋まってしまった彼女にこっそり笑ってからその手を引けば、その小さな身体はそっとオレの隣に引っ付いてくるものだから、かわいくって仕方が無い。…別に深い意味はない、妹みたいなものなのだ。可愛がって何が悪い。 「はい、到着ー。上がって上がって。そこ右入ったとこがトイレね。その隣の扉が風呂。洗面台もそこ。んで、突き当たりがリビングっス。とりあえず荷物、リビングで広げればいいっスかねー」 事務所が随分と頑張ってくれたようで、ベランダへ出ればそこそこ見晴らしが良い。周りに大きな建物があるわけではないから、ここなら彼女も出られるだろうか。彼女のトランクを片手に、ついでにこっちがオレの部屋でー、そっちが名前の部屋ね、なんて部屋ん中を案内。うっかりオレが楽しくなって、彼女に袖を引かれるまでついついぺらぺらと一人で喋っていたような気がする。これじゃあ本当に、どっちが大人なんだか分かんないっスね。 「あ、ごめん。オレが舞い上がってちゃだめだね」 「それは大丈夫、なんだけど」 着いたらとりあえず休ませてあげよう、そんな想いがすっかり抜け落ちていた自分のおめでたい脳みそに悪態をつきながら彼女をソファへ座らせて、ついでに彼女の顔を半分くらい隠してしまっているストールも奪ってしまえばその顔は思っていた以上に疲れ切っていた。まずい、何やってんだオレ。 「あー…ごめんね。ココア淹れるっス。ちょっと待ってて」 彼女の小さな頭に触れて、その髪をくしゃりと撫でればこくんと小さく頷いてくれたことに少し安堵しながらここ数日でやっと慣れてきたキッチンへ立つ。オレには手元のシンクも頭と重なる戸棚も少しばかり低いけど、彼女が立てば今度は戸棚に届かなくて奮闘しそうだな、こっそり踏み台でも用意しておこうか。彼女のために、少し練習したホットココアを片手にソファへ戻ってテーブルにカップを置く。 お待たせ、そう言っても動かない彼女にあれ?と首を傾げて覗き込めば家を出てからずっと離されることのないクッションを抱えている彼女からは、小さくも規則正しい寝息。 「寝て、る?」 少しだけ色付いている頬をひとつまみしても寝息が途切れることはなく、そのまま目元を撫でれば僅かに寄せられていた眉間の皺もふわりと溶けた気がした。 「…お疲れさま」 柔らかい髪を何度か撫でて、どこか安心したような表情へ変わったのも見届けて、彼女へ手渡すはずだったマグカップを片手にオレはまた、先ほどまで居たキッチンへ戻る。夜ごはんでも食べながら、これからの話をゆっくりしよう。 |