かくかくしかじか、 「黄瀬、仕事も増えてスケジュール詰まってるし、そろそろ都内に引っ越さない?」 さらりと落とされたマネージャーの言葉に、特に何を考えるでも無く「そうっスねー」と答えたのが悪かったのか、いっそのこと良かったと思うべきか。なんだかんだと長年離れることのなかった地元ともさよならだな、と思ったところで脳内に浮かんだその人物に会いに行こうと思ったのは……昔の先輩の言葉を借りるのであれば、それはきっと何らかの運命だったのだろうと思う。 ピンポーン、間の抜けたチャイムがひとつと久しぶりに聞く母親の友だちの声。あら、なんて軽く笑って家にあげてくれるその人に簡単に挨拶をして目的の人物の所在を確認。勿論、もう何年も返ってくる言葉は決まっているのだが。 「名前なら自分の部屋にいるわよ。どうせ涼太くんが来たって言えば出て来るでしょ。勝手にあがってー」 そう言ってあっけらかんと笑うおばちゃんの姿は、相変わらずその目的の人物とそっくりである。ああいや、正確には彼女が、母親に似ているというだけなのだが。 見慣れた扉を軽く叩いて声をかける。久しぶりな分、少しだけ早くなる鼓動に苦笑いして待てばかちゃりと小さく開く扉。中学生の終わりですっかり止まってしまったらしい彼女の成長期。もう二十歳手前だというのにオレよりもずっと下にある瞳がぱちくりとまばたきをひとつ。 「どうしたの?」 「んー、ちょっとね」 「お仕事は?」 「今日はおしまいっス。おばちゃんが夕飯食べてっていいって言うから、久しぶりにのんびりお邪魔しようかと思って」 ふわりと笑った彼女がオレを部屋へ入れてくれるまで時間はかからない。相変わらずこじんまりとして、綺麗に片付けられた部屋。ベッドにもたれて座ればいつからかオレのために増やされたクッションを手渡される。こうやって懐かれてるって思える瞬間に胸に流れ込むあたたかなものは兄心とでもいうやつなのか。 向かい合うことはなく、いつだって彼女はオレが座った隣に腰を下ろしてぽつりぽつりとたわいもない話。通信制の高校に在籍している彼女からは課題がどうとか、テストがどうとか、登校日がどうとか、そんな何でもないようで大切な話ばかり。彼女の口から語られるのは先生の名前か学校のこと。家族のこと。友だちと思われるような名前が一切出て来ないのは、やっぱりオレの知らない彼女が確実にそこにいるからだろう。 一区切りついたところで、少しばかり深呼吸。今度は、オレの少し大切な話。 「オレね、引っ越すんスよ」 「……一人暮らし?」 こういうことばかり察しが良い彼女はすぐに把握したらしく、思いのほかすんなりと返される言葉。都内にいくの?うん。なかなか会えなくなっちゃうね。うん。そっか。お互いに向き合っている相手は壁だけで、オレも彼女もどんな表情をしているかなんてわからないけど、隣でそっと膝を抱える気配がしたから彼女はきっと頭の中でいろんなことを考えている。 仕事の兼ね合いでなかなか彼女と会う時間もとれないまま、今では月に1度のペースになっている彼女宅への訪問。近所だというのに、だ。これがきっと、二ヶ月に1度とか、三ヶ月に1度とか、気付けば半年くらい平気で帰っては来れないかもしれない。 「出来るだけ、様子見には来たいんスけど」 「大丈夫だよ。いざとなったら、たぶん、がんばれる」 心配しないで、そうやって笑った彼女に少しだけ何故かオレの鼻の奥がツンとした。懐かれてる、それは事実だと思う。彼女にとって、家族以外の話し相手はオレしかいないはずで、オレしか知らないはずで、それなのに。ああいや、こんな風に思うこと自体間違ってるだろ、オレ。 その日は珍しく、おばちゃんと三人でごはんを食べた後彼女が玄関の外まで見送りに出てきてくれた。別に今日が最後、というわけでもないのに。ほんの少し冷たくなった夜風に揺れる髪に触れる。さらさらと指をすり抜ける彼女の髪を撫でて見下ろした先にある瞳はどこか不安に揺れているように見えた。それはもしかしたらオレの気のせいかもしれない。将又願望かもしれない。それでも、一度胸の内に生まれてしまった想いを押しとどめられる程、どうやらオレは大人にはなりきれていないようだ。きっと、彼女の方がよっぽど大人である。 「…あのさ、名前」 「うん」 「ついて、来ないっスか?まだ部屋とか何も、決まってないけど。どうせ事務所が決めるし、セキュリティは万全のはずっス」 「……え?」 「おばちゃんたちにはオレが話をする。それこそ事務所にだってオレが言うし、高校だって登下校の時間短くなるっスよ?」 この想いが何から生まれるものなのかは分からない。それでも、ほんの少し今までよりあいてしまうその距離がどうしてもオレは怖くて仕方が無かった。オレの知らないところで、彼女が消えてしまったらどうしようか。オレの知らないところで、彼女が壊れてしまったらどうしようか。 ゆらりゆらりと、いつだって不安定な彼女が、そのままぱたりと倒れて動かなくなってしまったらきっと、オレがどうにかなってしまう。 だから、だから 「だから、一緒においで」 差し出した手が掴もうとしたのは、果たして彼女のしあわせか、オレのしあわせか。いつか答えが見つかるだろうか。答えが見つかるまで、彼女はオレの手のなかで笑っていてくれるだろうか。重ねられたその小さな手を握って見つめた先のやわらかい笑顔に、そんな一瞬の暗闇なんて吹き飛ばされてしまった秋の夜。 |