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13.相合い傘


口を開く度に周りの人間には酷く驚かれたし、どういうこと!?と問いただされたりもしたけれど、わたしと彼の関係は特別変わったことなんてなかったと思う。

水曜日の二限目。わたしは自然とグラウンドを駆ける赤を目で追っていたし、気付けばその赤を纏った彼もふとこちらを見上げるそぶりを見せることが増えた。
金曜日の四限目。わたしは自然と2階の右から2番目の教室、窓越しの赤をたまに見上げて、そしてその赤も時たまグラウンドを見下ろしていた。


放課後、友だちに手を引かれて訪れた体育館。そこには毎週水曜日の二限目に窓から見ていた姿より、ずっとずっと生き生きとしている彼がいた。バスケットボールという競技には然程興味はなかったけれど、テキパキと部員に指示を送る彼はとても素敵に見えて、格好良いなあとますますわたしは彼の事を目で追うようになってしまう。


他の女子生徒のように通い詰めたわけではない。いつだって私は遠くから眺めては胸をときめかせていただけ。彼の何を知っている訳でもなかったから、彼と話をするきっかけは本当に突然偶然が重なって起きたハプニング。


月曜日の六限目、もうすぐ定期テストということもあって授業はほんの少し駆け足になる。勉強はそんなに嫌いじゃないけれど、出来るわけでもないわたしは可もなく不可もなく、学年順位もいっつも真ん中か、運が良ければ少し上をいくくらい。

そんなわたしが授業についていくのに割と必死になっている時、ふと外が光った気がした。クラスがざわついた瞬間、耳をつんざくような轟音。思わず顔をしかめればあっという間に地面を叩き付けるような雨粒が落ちて来る。夕立、だろうか。グラウンドの先は凄まじい雨でほとんど景色が見えなくなってしまう。おは朝のお天気お姉さんは雨のあの字も言ってなかったのになあ。少しだけ文句を言いながらやんでくれることを祈ったけれど、結局雨は止むことはなく時計は進みあっという間に放課後になってしまった。友だちも親の迎えで帰ってしまいわたしはひとりしゃがみ込む。


昇降口で、ただただぼーっと赤の無いグラウンドを眺める。止む気配はないそれも、少しずつ弱まってはいる。叩き付けるような雨が今は比較的穏やかになりつつある。空は暗いけれど、雷もどこかへ行ってしまったようだ。生憎今日は両親ともに仕事で居ないから、もう少し弱まれば帰れるかなあ。そんな時、視界の隅にきれいな赤。


「帰らないのか」


「…あ」


「迎えは?」


「え、っと……今日は親迎え来れなくて、でももう少し弱まれば帰れるかなって」


そっとわたしの様子を伺う彼の口元はゆるく弧を描いている。入っていくか?そう言って開いた黒い傘。びっくりして戸惑う私を余所に、先生に見つかるとまた厄介だろうと言ってなんだか彼の傘にお邪魔してしまうこととなる。
わたしより頭ひとつとすこし高いところにある彼の顔。そのときは気付かなかったけれど、今思い返せば分かる。とてもわたしに気を遣って、わたしが雨に濡れないように低く寄せられていた傘の存在。

彼の右肩がすっかり雨を通し冷えきっていることなど当時のわたしは当然知る由もなかった。


そしてそれが、初めて彼と会話した奇跡のような出来事。まるで漫画みたいな出来事にわたしは夢なんじゃないかと疑いながら、思いのほか口数の少なくない彼と緊張しつつも楽しい帰路を過ごしたのだ。



「オレのこと好きだろう」


「はい!?」


そんな会話を交わしたのはいつだろう。とても懐かしくて、思い返す度に心があたたかくなる。いつでもわたしの前を歩く彼が振り返って笑う。差し出された手を取れば彼はまたきれいに笑った。



「赤司くん、帰り一緒に参考書選んでほしくて、部活終わるの待っててもいい?」


青春の日々は過ぎ去るのがとても早く、学年はひとつあがり、グラウンドの彼は水曜の四限に変わった。見上げる窓は3階の真ん中ぐらいに変わった。休みの日でも部活に勉学に全力を尽くす彼とデートなんて言えるようなことは無かったけれど、お昼を一緒に食べることぐらいはあったし、時たま彼に許可を得て彼の帰りを待つこともあった。わたしの家まで送ってくれる彼。そんな彼は自分の家を教えようなんてしなかったけれどわたしは然程気にしなかった。彼の気遣いも、わたしへ向けられる言葉も、全てほんものだったから。


それに、日頃の彼の印象を少し越えて、彼はわたしをとても大事にしてくれた。お待たせ、そう言って当然のように繋がれる手。志望校は決まったのか、そう言う彼に高校名を伝えればお前はやれば出来るから、と応援してくれる彼と並んで参考書を選んで、彼はなんだか小難しいタイトルの本を手に取って、そしてその日もふたり並んで帰路につく。


「付き合ってくれて、ありがとう」


「大したことじゃない」


小さく笑う彼。そっと手を振って夜道に消える彼の背中を見送った。その矢先。一週間もしない頃、突然彼からの連絡がぱたりと止んでしまったのだ。あれほど廊下やお昼に会えていたというのに、まるで学校にいないんじゃないかと言う程に彼のことを見かけなくなっていった日々。
唯一わたしが彼を確認できるのは、水曜の四限。グラウンドには相変わらずきれいな赤。何が起きたのかわからなかった。嫌われてしまったのだろうか、何かしてしまったのだろうか、そんな不安でいっぱいになって、そっと覗きに行った体育館でわたしは彼が彼でなくなってしまったことを知る。


淡々と練習をする彼は、とても数週間前までわたしの隣にいた彼とは思えない程に苦しそうな顔をしていた。わたしが知っているバスケをしている彼はどこか楽しそうだったのに、その楽しげな空気さえない。ピリピリと張りつめた部の雰囲気。そして何より、彼の瞳の色がすてべを物語っているように見えた。彼はまるで、何も見てないようだったのだ。


それ以来、彼の瞳にわたしが映ることはないまま中学を卒業。彼に選んでもらった参考書と向き合い格闘を繰り返した結果わたしは無事に第一志望の都内の高校へ進学。彼は……周りから京都へ進学したことを聴き酷く落ち込んだものだ。
かなしかった。何もわからないまま、彼の口から何も語られないまま、彼が離れて行ってしまったことが、何よりもかなしくて仕方が無かった。

こんなにも、誰かを好きになるなんて思っても見なかった。たかが中学生の恋愛なんて、きっと、一時の気の迷いのようなものだと言い聞かせ、高校生活の中で度々目にし耳にした彼の名前も見ないフリ。聞こえないフリを貫いた。
何度か、彼が信頼していた当時のチームメイトである黒子くんと顔を合わせたこともある。向こうから声をかけてくれたこともあったけれど、わたしはいつも笑って逃げ続けた。わたしを気遣う黒子くんの瞳が真っ直ぐすぎて、なんだか怖かったのだ。見透かされてしまいそうだったから、過去のことは忘れてしまったと嘘を重ねていく。



塗り重ねる嘘が、いつしか固まって、剥がれなくなってしまうくらいには年月が経っていたのだと思う。


「…雨、」


会社帰り。突然の土砂降りに彼との日々を思い出す。そう、もう何年も経っているというのに、わたしは今も尚彼を忘れることなどできていない。本当に、すきだった。否、すきなのだ。ぜんぶ、ぜんぶ。忘れられない。忘れられるわけがない。未熟だった大人になんかなりきれてなかった、それでも、彼への想いはほんものだった。

わたしの手を包むきれいな手がだいすきだった。わたしの名を呼ぶ少し低くて心地良い声がだいすきだった。頼もしくて心強い背中がだいすきだった。別れ際、優しくわたしの頭を撫でまた明日と微笑む表情がだいすきだった。何よりも、いつもわたしの一歩前にいながら足を止めて振り返ってはわたしを見守ってくれる彼のことが、ほんとうに、だいすきでだいすきで、彼との思い出が、この想いが、色褪せるわけがない。彼は相変わらずわたしの中に居座り続け、わたしも彼を消せずに毎日似たような日々を重ねていく。


降り続ける雨はジャケットを抜け、ブラウスに染み込んでわたしの肩を濡らす。あの時みたいに、隣で傘をさしながらやらかく微笑む彼はいない。今どこでなにをしているかもわからない。だってわたしは、彼の家のことひとつ知らなかったのだから。聞いておくべきだったと悔やむ。けれど、教えてくれただろうかと考えればそれはきっとノーだ。複雑なのだろう、彼の家族の話は一度も聞いた事が無かったし、彼の家を知る人もゼロに近かったのだから。


彼に会いたい、もういちど、彼の笑顔が見たい。そう願えば願う程、わたしの頬は雨粒ではないもので濡れていく。叶いっこないと分かっているからこそ切なくてたまらなくて、すん、と鼻をすすった瞬間だった。それはまるで、夢でも見ているかのよう。ふっと、わたしの身体を叩く雨粒が途絶え、地面と自分のつま先しかなかった視界に入る、わたしの靴よりずっと大きな革靴。


「……こんなところで泣いていたら襲ってくれと言っているようなものだろう」


自分の記憶よりも数段低くなった声は、それでも、すぐに耳が彼だと判断する。ぱっと見上げた先には眉を下げて笑う彼がいて、わたしは固まってしまった。どうして、なんで、だって、声にならない言葉がたくさん頭の中をぐるぐるする。


「風邪ひくぞ」


「……あかし、くん」


「すまなかった。今更言い訳をするつもりはない。ただ……謝りたかった」


随分と探したんだ、お前のこと。そう言う彼の困ったような笑みがじわじわと滲んでゆらゆら揺れる。ゆるさない、涙に震える声で彼を見上げれば揺らぐ視界の中で彼の表情が酷く強張った。ぴくり、揺れる傘に少しだけ傘の上の雨粒がぽたぽたと落ちる。


「ゆるさない、わたしが、どれだけ……っ、どれだけ、」


貴方を、想ったか、そう続けるはずだったわたしの言葉も、溢れてとまらないわたしの涙も、全部彼のシャツに呑み込まれていく。背中にまわった彼の手が震えているのはきっと…わたしの気のせいなんかじゃない。だって、耳元に落ちて来る彼の声もまた、同じように小さく震えている。


「……オレにもう一度、時間をくれないか」


「やだ、」


時間?そんなもの、彼に恋してからずっとわたしの生きている時間は彼に捧げているようなものだ。今更どうしろというのだ。こんなにもわたしを苦しませたくせに。もう充分、時間はあったでしょう。だから、だからだから、


「今すぐ、答えを出してくれなきゃ、やだ。もう、待つのやだ、っ」


彼の言葉を拾うたびに、彼へ言葉を落とすたびに、壊れそうな程に締め付けられる心臓。止まる事をしらない涙は彼のシャツを更に濡らしていく。濡れたスーツ越しに感じる彼の体温が酷く熱く感じて、聞こえる胸の鼓動はわたしよりずっとずっと早く時を刻んでいた。一瞬息を呑んだ彼の腕がより一層強くなり、わたしの後頭部にまわるわたしのだいすきな彼のてのひら。


「っ好きだ」


絞り出すように小さく掠れて紡がれた言葉を聴いてわたしはやっと、彼の背中に腕をまわせたのだった。




「…っていうのをね、土砂降りの度に思い出すの」


あれから随分と時間はかかったけれど、彼から半分くらい信じられないような話を聞いた。驚いたけれど、わたしともう一度時間を重ねてくれる彼はあのときの彼のままなにひとつ変わっていなくて心底安心したものだ。


「……忘れろ」


ただ、彼はやっぱり気まずくなるようで、あんまり良い顔はしないけれど…あの時本当にわたしは嬉しくて、思い出す度にやっぱり心はほんわりと暖かくなる。


だけど、何よりもわたしが驚いたのは彼の身に起こった出来事よりも彼が初めて傘を差し出してくれたあの日のこと。彼がわざわざ迎えの車を断って、自宅の反対方向までわたしを送ってくれたという話。最初から全ては彼の手の中にあったことを知って、わたしは心の底から笑ってしまったのだった。

なんて彼らしい。だって、きっと全て彼は把握していて、グラウンドを見下ろすわたしにも気付いていて、あのタイミングを待っていたのだろうかと思えばなんだかとても愛されているなあと思って彼に隠れてちょっとだけにやにやしちゃう。




「ねえ、赤司くん」


「なんだ」


「お買い物行かない?」


一瞬窓の外を眺めた彼が、ぱたんと読んでいた本を閉じて微笑む。


「……傘、入ってくか?」


ほら、あの頃からずっと……わたしと彼は、変わらない。ただ、わたしの方へ傾けられた傘を少しだけ手でおして真ん中に。おい、と咎める彼の傘を持つ手にそっと腕を回せば彼は一瞬驚いた顔をしたあと、わたしのだいすきな笑みを浮かべて歩き出す。


ねえ、赤司くん。貴方に出会えて、貴方に恋して、本当にしあわせだと今なら胸を張って言えるよ。ありがとう。





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