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10.歩幅を合わせる

有意義な夏休みを、というありがちな言葉を残して去った担任に教室は一気に騒がしくなる。明日から夏休み。終業式を終えて今日はいつもより少し早めの下校。彼の部活も今日ばかりはお休みのようで、教室にいた生徒のほとんどが帰り道についた頃、脇に鞄を抱えた彼が顔を覗かせた。


「かーえーろー」


大きな体で軽やかに近づいてくる彼に返事をして席を立てば、彼はその綺麗な顔をさらにきらきらと輝かせて笑う。課題の話をしながら昇降口を出る頃には、もう生徒もまばらになっていた。これくらいにならないと、彼の隣はとてもじゃないが歩けない。


「うわ、あっつー」


わたしより先に日向へ出た彼が顔を顰めた気配がしたけれど、すっかり逆光で表情は読み取れない。ただ、陽射しに反射してきらきらと揺れるその髪がとても綺麗で、少し見とれてしまった。そんなわたしを振り返って日陰に戻ってきた彼の表情はどこか不思議そうな、でも楽しそうな雰囲気を醸し出している。


「なに見てんスかー。帰ろ?」

「なにも見てないよー」


こんな時間に一緒に帰れるのが久しぶりだから、少しは浮かれてくれたりしてるのかな。楽しそうな顔の理由が、そうであったらいいなと思いながら彼の隣を歩く。日向に出た途端じりじりと肌を焼くような陽射しに思わずさっきの彼と同じように暑いと零せば何がおかしいのか小さく笑いながら「ねー」なんて可愛く相づちをうつ彼。


「かき氷とか、食べたいっスね」

「うん、かき氷日和だねー」

「どっか、寄ってこっか」


そう言ってわたしの手を引いた彼は帰り道とは逆の道へと進んでいく。普段乗らないバスに乗って、揺られ続けること数十分。どこかあてがあるのだろうか。隣に座る彼を見上げれば、その横顔はやっぱりとても楽しそうだ。わたしの視線に気付いた彼がこちらを見るからどこ行くの?と聞けば楽しそうな顔からすっと無邪気さが消えて、細められた瞳に息を呑む。


「まだ、ナイショ」


イタズラする子どもみたいな、だけどなんだか酷く色っぽいその表情に何も言えなくなってしまったわたしの耳が、熱い。顔を逸らすわたしを見てまた彼が笑った気がしたけどとても彼の方は見れない。そういうところは、本当にずるいと思う。


「もうちょっとっスよー!」


結局一時間と少しバスに揺られて、知らない街に降りて十分ほど歩いた頃、彼がそんな言葉を皮切りに歩みを早める。当然のように手を引かれているわたしもそれに引っ張られるのだけれど、彼とは足の長さが違うのだ。彼にとっての早歩きは、わたしにとっては最早小走りである。待って、と言う声も彼は笑って聞き流してくれるもんだからたまったもんじゃない。


「ちょ、ほんと待って…!」

「ふはっ、名前ちゃん必死!普段運動しないからっスよー」

「ちが、身長差!!」

「聞こえないっス!」


まだまだ、そんな言葉にまさかと彼を見上げれば酷く意地悪な笑顔。まずい…そう思ってももう遅かった。しっかりと手首を掴まれて、いよいよ彼が走り始める。ゆるい下り坂なのが幸いだけれど、どんなに彼が本気じゃないにしたってわたしは体育の授業以外で運動なんてしないとてつもないインドア人間なのである。何度も転がりそうになりながら彼に引き摺られるようにして走り続けたのはたった数分だったのかもしれないけれど……わたしにとっては地獄のように長い時間だった。


「前見て、前!」

「っまえ…?」

「ほら!」


ほんの少しだけ走る速度を緩めた彼に言われるがまま顔をあげれば、目の前に広がる青。澄み切った空と、深い海がどこまでも続いて溶けていく水平線に目を奪われて、そんなわたしに「だからもうひと頑張り」となんとも手厳しい一言を落とした彼は緩めた速度をまたもとに戻して走る。ここどこなのとか、どうしてとか、聞きたいことはたくさんあるのにわたしの口からは擦り切れた息しか出て来ない。


「っ、わっ…!」


やっと砂浜に足をつけたところで、いよいよさらさらと形を崩していく砂に震えるわたしの足は見事に絡めとられてすっ転ぶ。砂浜で転んでも痛くはないかもしれないけれど、反射的に力の入った腕は……相変わらず、彼の手が掴んでいる。転んだ勢いのままに彼に引っ張られて、わたしがぶつかったのは砂浜ではなく彼の胸。わたしなんかよりずっとがっしりとしたその腕に思いっきり抱きしめられて、そこまでは良かったのだけれど……あろうことか、彼は踏ん張ることなく重力に引き寄せられるように背中から砂浜へと倒れ込んでしまった。当然、その腕にしっかりと捕まっているわたしもろとも。


「ははっ、砂浜って言っても流石にちょっと痛いっスね!」


息一つ乱さずに眉を下げて笑う彼の背中は、海水浴客で溢れる前の綺麗な砂浜に受け止められ大した怪我もないようだ。というかむしろ、勢いのままに彼の胸に二回もぶつかったわたしの鼻の方が確実に痛い。


「よいしょ、っと……大丈夫?」


片手でわたしを抱きしめたまま体を起こして座った彼は今更そんなことを言う。覗き込んできた彼の顎を手のひらで押しやればいててて、なんて痛くもなさそうな声。


「っ、も…死ぬかと、思っ…!」

「ちょ、爪!爪食い込んでるから!」


これでわたしが鼻血でも出してたらどうするつもりだったんだろう。きっとそんなこと、考えてないんだろうけれど。擦り切れていた呼吸がなんとか落ち着くまで、ひとしきり背中を撫でてくれていた彼だけど……そんなことをしても、わたしの機嫌は治らないんだからね!と開きかけた口を彼のてのひらが制する。


「無理させたのは謝るから、そんな顔しないで?ちょっと楽しくなっちゃったんス」


夏休みは、きっと部活と仕事であんま会えないから。そう続けた彼の瞳にほんの少し影を見つけた気がして、しょうがないなあと笑ってしまった。わざわざ遠出したのも、普段学校であまり彼に近寄らないわたしへの"知り合いに会わないように"という彼なりの配慮なのかもしれない。日頃とても大人ぶったり、飄々としていたりするけれど、彼は彼でもっとデートしたいとか、遊びたいとか、思ってくれてるのかな。そんな風に思ったら、元々彼に甘いわたしはあっという間に絆されてしまう。もしかしたらここまで、ぜんぶ彼の思い通りなのかもしれないけど。


「ちょっと待ってて」

「うん?」

「いいから、待ってるんスよ?」


待て、は涼太くんの特技じゃないの?と言ったらもう!って楽しそうに怒りながら慌ただしく離れていく彼。今日は一段とその行動が賑やかだ。
そうして五分ほどで戻ってきた彼の両手には、こんなところまでやってくるきっかけになったかき氷。今日一番の笑顔で差し出されたそれを受け取れば彼は隣にそっと腰を下ろす。走ったせいで汗がとまらない体にはかき氷の冷たさが心地良くて、大した話をするでもなく食べ終わってしまった。空になった器はそっと彼の手に渡り、彼のそれと重ねられる。なんでもないことのように彼の脇に置かれるその一連の流れが彼の優しさで溢れていて、また少し彼への気持ちが大きくなってしまったような気がする。


「ごちそうさまでした」

「オレが一緒に食べたかったんス。だから、ありがと。でね、ありがとついでにもう一つオレのわがままに付き合ってほしいんだけど」

「うん。……あ、海に入る以外なら」

「流石にそんな無茶ぶりしないっスよ!制服だし!」

「わたし見てるだけならいいよ?」

「一人でなんて尚更入んない!」


二人で笑い合って、落とされた彼のわがままはもう少しここにいたい、というそれだけのことだった。授業の話、部活の話、家族の話。絶えない話を広げながら彼と過ごす時間は夏の暑さも嫌ではなくなってしまう程に心地の良い時間で、あっという間に空が茜色に染まっていく。夕日に照らされていく彼がなんだかすごく綺麗で、儚くて……そっと彼の手に触れれば一瞬瞳を大きくし、すぐにそれをふにゃりと緩ませて絡めとられる指。きゅっと握られたその手を握り返したところで絡んでいた視線を解いたのは彼で、そんな彼の視線を追うように海を見れば太陽が溶けて落ちていくところだった。少しずつ、でも着実に、じわりじわりと青い海を赤く染めて溶けていく。そういえば、太陽が沈んでいくところをちゃんと見たのは初めてかもしれない。ゆっくりと時間をかけて赤く染まる海に比例して、暗闇を増していく空。そのふたつがまるで引き寄せられるみたいにくっついて、赤が海と空に飲み込まれる。その様子を、まるで時間が止まったみたいに二人身動きひとつせずに見つめていた。


「……この景色をね、一緒に見たかったんスよ」


すっかり暗闇に包まれて、空にたくさんの星が散りばめられた頃。先に口を開いたのは、ここまで連れてきてくれた彼。


「夏休みの思い出、先取りしておこうと思って。普段あんまりデートとか出来ないからさ」


そう言って笑った彼がすっと立ち上がる。繋がれた手を引かれて、つられて立ち上がればそのままその手に引き寄せられた。わたしの頭に顎を乗せる彼がどんな表情でいるのかはわからないけれど、くすぐるようにわたしの髪を撫でるその手が酷く優しくて、その手とおなじくらい優しい顔をしているのかなって思ったら胸がぽかぽかとあたたかくなる。


「ありがとう、涼太くん」

「うん、どういたしまして!」


へらっと笑った彼がそっと離れて、もう一度わたしの手を握り直す。かえろっか。その一言に頷けば、彼はとてもゆっくりと歩き出す。わたしのペースに合わせて歩いてくれるのはいつものことで、ここへ来る時が特別だっただけのことなのだけれど


「帰りは走らなくていいの?」


と、笑って彼の顔を覗き込めば


「名前ちゃんさては根に持ってるんスね?」


同じように目線を合わせて彼が笑ってくれた。明日は筋肉痛に悩まされるかもしれないけれど、それでも、それが彼との思い出ならば幸せに変わってしまう。



「帰りはゆっくり行くっスよ。だって……」


そうすれば、もう少し名前ちゃんと居られるでしょ?


瞳を細めてそんなことを言う彼に心臓を跳ねさせながら坂道をのぼっていく。一歩ずつ、ゆっくりと、幸せをかみしめるように……歩幅を合わせて歩いてゆく。そんな道が、時間が、ずっとずっと続けばいい。



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