8.下から手渡しで食べさせる 「うわ、マジ汗くせーオレ!」 「さっきからうるさいのだよ」 動く度に鼻をかすめる自分の汗臭さに心底嫌になりながら部室でエース様と並んでユニフォームを脱ぎ捨てれば隣でため息が聞こえるけど気にしない。先輩たちが出てきたのを見計らって頭っからシャワーを浴びてこれでもかってくらいの汗を流し、おっさきーとエース様に声をかけつつぽたりぽたりと髪からこぼれ続ける雫をいつだったか彼女からもらったタオルで拭き取っていく。がしがしと拭って、少しだけ暖かく感じるワイシャツに袖を通したついでに手櫛で前髪を整える。ベルトのバックルを留め直して、今日は別で帰るとだけエース様に残して部室を出る。左手の鞄が少し軽く感じるのは、たぶんオレが珍しく浮かれているからかもしれない。 廊下に僅かに残る甘い匂いにらしくもなく心躍らせながらそっとその扉を開き、待っているであろう人物を思い描いて声をかけた。 「お待た……せ?」 ただでさえ盛り上がっている運動部の中で、更にどの部活よりもなんだかんだ練習時間が延びるうちの部の部室が暗くなるのは下手をすると職員室の電気が消える時間と良い勝負だ。テスト期間でもない限り、本当にギリギリまで皆して練習を続ける。それがオレは酷く心地よくて、皆が皆懸命に努力を重ねる毎日が楽しくて仕方が無い。と、いうのは勿論事実である。事実であるのだが。 そんな運動部とは真逆、部活としてはギリギリの人数を保ちひっそりと活動している彼女の所属する部活は毎日家庭科室の隅っこで行われている。故に、比較的常識的な時間に終了し、当たり前のように先に帰ってしまう。下手するとオレがシャワーを浴びて、さあ帰るかって時には既に彼女は家に居て、もっと酷いときは飯だって食い終わってたりするから恐ろしいものだ。 そんな彼女が、いつものように部活前の数分で会いに来たオレに向かって「今日マドレーヌ焼くんだけど、和成くん、すき?」なんて反則的なくっっっっそかわいい笑顔で首を傾げて上目遣いで問うものだから、オレはうっかり耳まで赤くなるのを必死に隠して終わったら行く、なんて言ってしまったのだ。今思えば彼女は今日待っているなんて一言も言ってなかったし、明日持って来る、という話だったのかもしれないが。それでも、そんな早とちり勘違い全開な高尾くんに向かって家庭科室で待ってると頷いてくれた彼女は最早天使である。 その、マイエンジェルの元へといつも以上に汗の匂いを気にしながらもすっ飛んできたわけだが…… 「……寝てる?」 家庭科室の隅っこ、窓にもたれて小さく寝息を立てる彼女。その両手に抱えられた、透明な袋で丁寧にラッピングされたマドレーヌ。ちょこん、とオレンジと黄色のリボンで口を結ばれたそれはオレのため、って思ってもいいだろうか。おーい、声をかけながら彼女の高くも低くもない鼻をつまめば僅かに声が漏れるけれど一向に起きる気配がない。疲れているのだろうか。そういえば今日は彼女の苦手な体育がスペシャルメニューで二時限ぶち抜きだと言っていたかもしれない。そんなスペシャルいらないと嘆いていたのは比較的最近のことである。 穏やかで少し幼い寝顔を眺めているのもなかなか楽しくはあるけれど、ふと外に視線をやればもう太陽はとっくに沈んでいて、恐らくそろそろ日直の先生が見回りにくる頃だ。幸い、部室を出た時点ではまだ職員室の電気は灯っていたけれど。ついでに育ち盛りの男子高校生、正直今とても小腹が空いている。いや、もっと言えばぶっちゃけ飯食いたいくらいには本格的に腹が減っている。彼女の両手に収まっているそのマドレーヌにぐう、とオレの腹が音を上げるのも時間の問題だ。 「名前ー、起きろー。ダーリンのお迎えが来ましたよ、っと」 鼻をつまんでいた手を少しずらして彼女のすべすべの頬を撫でてから、やわらかなそれをひとつまみ。んー、と言いながらマドレーヌを抱えていた両手がひとつ減りその手で目元を擦る彼女。まだ寝ぼけているのか、舌足らずに「かずなりくん?」とこれまた死ぬ程かわいく訊ねてくれるものだから正直たまったもんじゃない。 「あー……ごめん、お待たせ。すっげー気持ち良さそうに寝てたから起こすの迷ったんだけどさ」 「んーん、待ってたはずなんだけど…わたしもごめんね。おつかれさま」 「いやオレが…ってキリないか。それ、さっき言ってたマドレーヌ?」 少しばかりドキドキしながらも余裕ぶって見下ろしたそれ。いま、たべる?と言う彼女に思わずきょとんとすれば、部活の後いっつもお腹すいたって言ってるでしょ、なんて言われてしまった。そう言われてみればメールやら電話をする度に腹減ったーだの家が遠いだの零していた気もする。うわ、なんか今更だけどダサくね? 「…格好つかないとか思ってる?」 「別に、」 「頑張ってるんだなあ、って思ってるから大丈夫。おやつにはもう遅いけど…食べてくれますか?」 全部見透かしたように、ちょっとだけ可笑しそうに笑った彼女がそっと袋のリボンを解く。彼女の小さな手にわたったマドレーヌがそのまま上目遣いの彼女とセットでオレへと差し出され、少し悔しくなって掴んだ彼女の手首。きょとん、とするのは今度は彼女の番だ。やられてばかりの高尾くんじゃありません。っつーか普通にそんなところに気付くなよ、別にただの無駄話だし、お前と話がしたいだけでそこまで意味のある会話じゃないんだって。 「いただき」 「えっ」 ばくり、我ながら行儀悪いなあと思いながら彼女の手にあるそれを腰を折って齧る。一口でもいけるけど、彼女の指まで食べてしまうとたぶん彼女は暫く口を聞いてくれなくなりそうだから少し遠慮。いや正直そのまま指まで食ってやりたいくらい愛しくはあるけれど。座ったまま瞳を大きくする彼女。仕方なく指を食わないように、と彼女の手に残ったマドレーヌはオレの手を経てから口の中へ。ほんのりレモンが香るしっとりしたマドレーヌに満たされる胸に自然と口角があがる。 「ははっ、顔あけー」 「か、和成くん!」 「ねえ、もう一個」 「じっ、自分で食べればいいのに」 相変わらず座ったままの彼女を窓に手をつくことで挟み込んで口を開ければ観念したかのように再び伸ばされるマドレーヌが乗った彼女の手。おいしい?と覗き込んで来る彼女に、ふたつめのマドレーヌを彼女の手から飲み込んでから体重をかける。近づいた距離に、ふわりと彼女から漂う甘い匂いに不覚にもくらっとした。 「美味かった、ごちそーさま」 あとは帰ってから大事に食うわ、彼女の耳にそう落としてそのまま真っ赤に染まってしまった彼女に笑って、彼女の手を引く。やっと立ち上がった彼女の顔は少しだけ近づいたにしてもやっぱり少しオレより下にあって、睫毛が落とす影にたまらなくなる。何もかもがオレより小さくてきゅんとしながら、引いた手を包み込んで帰路についた。 遅くなったし家まで送ってく、なんて言いながらたぶんこの世のどの男よりも今最も危険人物なのはオレである。男は辛いよ高尾くんの巻。 |