愛を夢みて君へ逢いに もう朝がすぐそこまで迫った深夜4時。澄んだ空気と、静寂な世界には似つかわしくないドサッ、と何かが落ちる音で目が覚めた。おやすみなさい、そう告げたはずの相手はもう隣にはいない。急な仕事だろうか、よくあることだけれど…せっかく目が覚めたのだからお見送りぐらいしたって許されるかな。 行ってらっしゃい。そう言う私に彼はいつもほんの少し視線を彷徨わせて、背中を向けてから小さく小さくああ、と言う。 行ってきますという言葉には行って、帰ってくるという意味が含まれていると聞いた事がある。律儀で真面目な彼は、いつも心のどこかで帰ってこれないかもしれないという想いを抱えているのだろうか。 実際のところはわからないけれど、彼の境遇から考えればそれはとても自然なことで、置いて行かれることも置いて行くことも…彼は酷く恐れているように感じるのだ。 置いて行かれた人間の気持ちを誰よりもよく知っている人。 信頼していた人間がある日突然目の前から居なくなる恐怖を誰よりも知っている人。 だからきっと…そんなことを考えながらそっとリビングを覗くと、そこにいた彼は私が思っていた彼ではなく、ソファの奥から覗く頭がひょこひょこと動いていた。 「……伸元、どうしたの」 一歩一歩歩み寄りながらそっとソファの奥を覗き込めば床に散らばる書類と転がっている眼鏡。 「あ、ああ……すまない、起こしたか」 「お仕事、行くのかと思って」 私の声に慌てて振り返った彼は手早く書類をかき集め、今日は非番だと言う。眼鏡を拾って差し出せば彼の手に渡ったそれはそのままローテーブルの上へ。 「大丈夫?」 書類を読みながらうとうとと睡魔に襲われて、そのまま見事に書類をぶちまけた模様。そういえば服装は寝間着のままだから本当に非番みたい。ソファに座りかけて、一瞬迷ったように立ち上がった彼がこちらを見てお決まりの一言。 「ああ」 「またそれ?」 「大丈夫だ、片付けたらすぐに戻る」 だから寝てろ、とでも言うのだろうか。うたた寝だなんて珍しすぎて心配でたまらないというのに。彼は努力の塊だ。決して短くない付き合いの中で私が彼から感じたものは、エリートだと言われる彼が極々普通の人間で、否、普通の人間以上に彼を取り巻く環境は複雑で、その中で誰よりも真面目にまっすぐ努力を積み重ねて来た人だということ。 きっと、頑張らないことを彼は知らない。そして、どんなに努力をしても彼が自分に満足することなんて無いのだろうとさえ思う。 悪いことじゃない、けれど。 「壊れちゃいそう」 「俺がか?そんなに柔じゃない。大丈夫だと言ってるだろう」 「でも、」 「目が覚めて、気分転換していただけだ」 「お仕事してたら気分転換にならないじゃない」 「そうか?」 どんだけ仕事が好きなのよ。そう思うのに、彼は小さく笑ってその大きなてのひらで私の頭を撫でる。私よりずっと上にある彼のきれいな顔は優しげな雰囲気を纏い私を見下ろすからなんだか何も言えなくなってしまうのだ。 一生懸命過ぎる彼を見ていて、私は毎日不安でいっぱいなのに。きっと、いつか、来てほしくないと願いつつも彼が帰ってこない日が来るのだろうと思う。仕事以外で命を落とす彼が想像出来ないのだ。長生きするタイプの人間ではないような気がする。 それを彼も解っているから、というよりはそう覚悟しているからこそ…彼は行ってきますなんて言わない。不確かな約束をするような曖昧な優しさを持っている人じゃない。 彼の持っている優しさは、どこまでも素直で、まっすぐで、偽り無く、ただただ私をしあわせにするためだけに、思いやりで溢れている。その優しさが私は時に酷く苦しくなってしまうのだけれど。 だって、嘘でもいいから、帰って来る。居なくなったりしない。そんな一言が聞けたら私はずっと安心出来るのに、彼は絶対にそれを言わない。 けれど、漠然と、いつか彼が居なくなってしまうかもしれないという不安に押しつぶされそうになる私を救うのも結局は彼。私の世界はいつだってなんだかんだ彼を中心にまわっているから、彼のことを想って苦しくなって辛くなって、怖くなることもあるけれど…彼の何気ない一言で簡単にしあわせになれてしまうくらいには、彼のことを愛しているのだろうと思う。……だいすきなのだ、要するに。 「……寝ないのか」 このままベッドへ戻るのは寂しくて、きっと不安でいっぱいなまま寝れない気がして、そっと様子をうかがう私に訊ねる彼。返事なんて、知ってるくせに。休む事を知らない彼を置いて、なんて言えば聞こえは良いけれど、本質はただただ私が彼と一緒にいたいだけ。こんな風に時間に追われる事なく一緒に過ごせるなんて滅多にないのだから、少しくらい独り占めしちゃだめかな。 「伸元、は?」 そんな想いを込めてそっと彼の瞳を覗き込めば、それは柔らかく細められ、寝ないなら少し付き合えと耳元に落とされた低くてほんの少し色っぽい声。腰を抱かれて思わずあわあわとしている間に垂れていた髪を耳にかけられ私の心拍数は急上昇。やっとの思いでなに、と聞けた頃には彼に腕を引かれて気がつけば背中がソファとこんにちは。 ソファに乗り上げた彼が私の顔の真横に肘をついて、まるで悪戯が成功した子どもみたいな、そんな笑顔を浮かべる。まずい。彼のこの顔は非常にまずい。滅多に入る事の無いスイッチは、稀に入るからこそ厄介なのだ。そこに、これ以上ない程の甘く優しい愛情がたくさん詰まっていることを知っているから尚更質が悪い。 「ま、まって、あの、もうすぐ」 「朝だな」 「えっ」 「昼まで寝るのも悪くないと思わないか」 名前、くらくらしそうな声で名前を呼ばれて、9割くらいは恥ずかしさで彼を止めようと口から出るはずだった彼の名前は、ものの見事に彼の唇に呑み込まれ、そのまま彼の手に落ちて行く。不安も心配も寂しさも、全てを埋めるように彼の背に腕をまわせばこれでもかと言う程に降って来る、ほんの少しだけ似合わない甘ったるい囁きたち。 次目を覚ましたら今度こそ、彼の寝顔に会えるだろうか。 |